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猿投神社(愛知県豊田市猿投町)延喜式内社

神社情報

神社名猿投神社
鎮座地愛知県豊田市猿投町大城五番地
御祭神大碓命
景行天皇
垂仁天皇
創 建社伝:第十四代仲哀天皇元年
社格等縣社
三河国:三ノ宮
神名帳延喜式氏内社:三河国加茂郡 猿投神社
三河国神名帳:加茂郡正一位 狹投大明神
文化財国 宝:
国指定:太刀:銘行安、黒漆太刀 刀身無銘、樫鳥糸威鎧大袖付、古文孝経 、本朝文粋、猿投神社漢籍
県指定:正一位猿投大明神扁額、革製竜頭馬面、猿投神社国書、猿投神社文書
市指定:木造千手観音立像、猿投神社御免富興行資料、木造千手観音立像
例大祭十月第二土・日曜日
境内社塞神社
御鍬社
洲原社
御嶽社
建速神社
秋葉社
厳島神社
境外社廣澤天神社(延喜式内社「廣澤神社」)
URL
御朱印
参拝日:

御由緒

 社伝によると、猿投神社の本社は十四代仲哀天皇元年(単純計算で西暦192年)に、勅命により、仲哀天皇の叔父にあたる「大碓命」を猿投山の麓に祀るとし、東宮は成務天皇の御代(本社創建に先立つ事六十余年と伝わる。)、西宮は不詳だが一説には白鳳十三年頃に創建されたと伝えています。

 猿投神社の境内から猿投山を登っていくと、「西ノ宮」と呼ばれる猿投神社の奥宮が鎮座しています。この「西ノ宮」の社の奥に設けられた石段を登った先に石塀で囲まれた古墳(円墳)があります。この円墳が明治八年に大碓命の墓と治定された古墳になります。

 現実的な視点で見ると、この古墳の埋葬者は不明という事になるのですが、伝承の様にこの古墳が大碓命の墓であったとしたら、一番最初に創建されたのは、墓の麓に鎮座している西宮なのではないかと思う訳ですがどうでしょうか。 

  • 仁寿元年(851年)十月、文徳実録に「従五位下」を授かると記載。
  • 貞観六年(864年)二月、三代実録に「従五位上」を授かると記載。
  • 貞観十二年(870年)八月、三代実録に「正五位下」を授かると記載。
  • 貞観十八年(876年)六月、三代実録に「正五位上」を授かると記載。
  • 天慶元年(877年)閏二月、三代実録に「従四位下」を授かると記載。
  • 延喜元年(905年)、延喜式神名帳に「三河国加茂郡 猿投神社」と記載。
  • 時期不詳、三河国神名帳に「碧海郡正一位 狹投大明神」と記載。

 猿投神社は、本社、東宮、西宮の御祭神をそれぞれ相殿で祀っていたと伝え、このことから「猿投三社大明神」とも称していたようです。西加茂郡誌によると、それぞれ三社の本殿には以下のように御祭神を祀っていたようです。

社名右配祀主祭神左配祀
本社垂仁天皇大碓命景行天皇
東宮垂仁天皇景行天皇大碓命
西宮景行天皇垂仁天皇大碓命

神宮寺

 白鳳年中の天智天皇の勅願によって猿投神社の神宮寺が創建されたと社伝にあります。神宮寺とは神仏習合の考えに沿って神社の境内に建立された「神祇の為の寺院」という性格の寺院の事をいいます。

神仏習合の「本地垂迹」に沿って

  • 本社には本地:阿弥陀如来、垂迹:大碓命
  • 東宮には本地:薬師如来、垂迹:景行天皇
  • 斎宮には本地:観世音、垂迹:垂仁天皇

をそれぞれ安置し、多くの僧侶によって奉斎されていたようです。

 史料によると、文明年間(1469-87)の頃には神宮寺十七坊が、元和年間(1615-24)には神宮寺十三坊、延享年間(1744-48)には神宮寺十坊があったと記されています。

 明治維新による神仏分離、廃仏毀釈の流れの中、明治元年まで残っていた神宮寺七坊はすべて破却。僧坊はすべて民籍に編入されています。

 鎌倉時代になると、高橋荘の地頭職として金谷城(衣城)を構えた「中条氏」の庇護を受ける事になります。中条氏は鎌倉幕府の評定衆を務め、尾張守護などに任ぜられるなど鎌倉幕府の主要御家人であったようです。鎌倉時代末期になると高橋荘のある三河国を勢力基盤としていた足利尊氏に接近し、南北朝から室町時代にかけて尊氏派として行動し、室町幕府内においても確固たる地位を築いていたともいわれ、現在の西三河北部の大半を治めるまでになり、更には尾張や伊賀の守護に任ぜられていたようです。この頃が中条氏の最盛期のようですが、その後は徐々に中条氏は衰退をしていくことになります。

中条流とは?

室町時代初期の「中条長秀」が創建した武術の流派。

 後年、様々な流派の母体となったとされ、江戸時代に宮本武蔵と巌流島で決闘した「佐々木小次郎」が学んだ流派も中条流の流れを組んでいたと言われています。

 中条氏の衰退と入れ替わる様に急伸してきたのが松平郷を本拠としていた松平氏になります。特に松平三代松平信光の時代に急速にその領地を広げた事もあり、明応二年(1493年)に中条氏は周囲の国人領主と連携し松平氏の本城である「岩津城」を攻め込みます(井田野の戦い)。しかし、この戦いで松平軍に敗れた中条氏はこれ以降領地外に撃って出る力を失い、松平氏を始めとする周辺の勢力からの侵攻を受ける事になります。

 そして、天文三年(1534年)六月二十二日、岡崎城主の松平清康が高橋荘に進軍し、猿投神社を焼き討ち、神宮寺の九つの堂塔が焼失します。その後、再建する力が中条氏には無かったのか、伊保周辺を本拠とする三宅氏によって堂宇の再建が行われたようです。

 松平氏、その後三河を支配した今川氏の度々の侵攻を受けていた中条氏は桶狭間の合戦の翌年の永禄四年(1561年)に織田信長の侵攻により中条氏は滅亡し、猿投神社は織田信長によって庇護をうけることになります。三河といえば徳川家康領というイメージがありますが、現在のみよし市や平成の合併前の豊田市地域は織田信長領であり、江戸時代では尾張藩領になっていたります。江戸時代には、七百七十六石という朱印地を与えられています。

  • 天文三年(1534年)、松平清康により焼き討ちを受け、堂宇を焼失する。
  • 永禄四年(1561年)、織田信長による庇護を受ける。
  • 明治元年(1868年)、神宮寺を破却。
  • 明治五年(1872年)、郷社に列格する。
  • 明治四十二年(1909年)、廣澤神社、小猿投神社、塞神社を合祀。

 創建は第十四代仲哀天皇の元年(192年)勅願によって、大碓命を猿投山麓に祀る。延喜式内社、国史所載の神社で仁寿元年(851年)十月従五位下を授けられ、後一条天皇(987-1012)の時に編纂の「国内神名帳」と嘉元元甲辰年(1304年)には正一位とある。社領は延応元年(1239年)六月十八日、神郷真重名田を始め、南北朝の頃は衣城主中条氏の寄進あり。豊臣秀吉の朱印状、徳川氏代七百七十六石(猿投全村)の朱印状が残る。尚、東宮は成務天皇の時、西宮は白鳳十三年の創建の御社がある。維新前まで神宮寺(白鳳寺)が管理するその内社家白鳳氏に明治二十五年慶次郎、同三十九年三月錬一郎社司となる。
 明治五年五月十八日、縣社に列格する。同四十二年二月十一日、廣澤神社、小猿投神社、塞神社を本社に合祀した。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」

御祭神

 由緒でも述べていますが、猿投神社の御祭神は、

  • 大碓命
  • 景行天皇(十二代天皇)
  • 垂仁天皇(十一代天皇)

の三柱であるとしています。本社の本殿で祀られている「大碓命」が猿投神社の主祭神になるかと思います。ただ、この大碓命を御祭神としたのはかなり歴史が下ってきてからとも言われていて、元々は猿投山を祀る「山岳信仰」の神々を祀っていたのではないかとも言われています。

大碓命とは?

第十二代景行天皇の皇子である。
「日本書紀」では皇后「播磨稲日大郎姫」との間に生まれ、小碓尊(ヤマトタケル)とは双子であるしている。「古事記」では皇后「若建吉備津日子」との間にうまれ、兄に小碓命(ヤマトタケル)がいるとしている。

 「日本書記」では、景行天皇四十年、天皇が東征についての適任である人物を臣下に問うた時、西征を終えて宮中に戻ってきたヤマトタケルは大碓皇子が適任であると進言した。この進言を聞いた大碓皇子は草むらに逃げ込み隠れてしまったという。結局東征はヤマトタケルが任じられるが、大碓皇子はその姿勢から天皇から攻められ、美濃国に封じられ身毛津君、守君の祖になったと言われています。

 「古事記」では、美濃国造である大根王の姉妹の娘が非常に美人であると聞き、大碓命に視察させた。美濃に赴いた大碓命は天皇に別の女性を大根王の娘であると献上し、大碓命自ら大根王の姉妹を娶りそれぞれに子を産ませた。

猿投神社の伝承では、美濃国封じられた後、猿投の地の開拓にも携わっていたが、景行天皇五十二年に猿投山に上る途中、毒蛇に噛まれなくなったとし、亡くなった地に墓所が造られたとしています。

延喜式内社巡りin三河国

 新型コロナウィルスパンデミックの早期沈静化を祈願する為に、まずは三河国内にある式内社を参拝して廻ろうかとおもっています。自分の神社巡りは、基本バイクを使って一人で巡って行くので、密にならず、ソーシャルディスタンスも確保し、さらに喋らないという感染防止策は万全の状態を維持しやすいかなと思っています。そこで、感染状況が改善しつつある時期を見極めながら参拝していき、その模様を紹介できたらと思います。

参拝記

 猿投神社と言えば、県道349号線沿いに建つ金色?黄色?の靖国鳥居とその先にある神門を思い浮かべる方もみえるかと思います。実はこの鳥居は二の鳥居だったりします。では一の鳥居はどこにあるのか・・・それは県道349号線を南に2.3km程進んだ場所にたっているのですが、ほとんど県道からその姿を見る事ができない事もあってあまりしられていなかったりしますね。一の鳥居がそれだけ離れた場所にあるという事は、猿投神社の参道がそれだけの距離設けられていたという事になる訳で、それだけでも猿投神社の繁栄ぶりを感じ取る事ができます。

二の鳥居と参道入口

 いつ建立されたのかは不明ですが、黄色に装飾された特徴的な靖国鳥居による二の鳥居と、その先に参道入口に建てられた神門がみえています。

 袖壁と通用門が設けられた四脚門による神門になります。屋根が銅板葺きなのか瓦葺きなのかで非常に視覚的に受ける印象が異なるものだとこの神門を見ると改めて実感させられます。

千木と鰹木

 神門の屋根に設けられている屋根から生えたように設けられている装飾の木を「千木」と呼びます。この千木の先端を垂直に切り落とした形状となっている場合を「外削ぎ」、水平に切り落とした形状となっている場合を「内削ぎ」と呼びます。
 一般的に「外削ぎ」の場合は御祭神が男神、「内削ぎ」の場合は御祭神が女神であることを示しているとされています。ただ、この区別もいつ頃から使われるようになったのかは不明。

 さらに、千木の間に六つ丸太の様なものが飾られていますがこれを「鰹木」と言います。この鰹木が奇数だと男神、偶数だと女神であることを示しているとも言われていますが、これについても審議は不明・・・。
 元々鰹木は、神社の規模を示すために設けられたものであるとも言われ、平安時代には、「大社が八本、中社が六本、小社が四本」とする決まりがあったといい、男神女神を示すものではなかったようです。

 大正十五年に建立された神門の前に据えられている社号標になります。戦前に設けられた社号標なのですが、社格や式内などを合わせて彫られておらず非常にすっきりとした様式になっているのが特徴ですかね。

参道

 神門を潜ると、社殿にむかって真っすぐと参道がまっすぐ伸びています。神門の内と外でガラった雰囲気が変わる感じがとても印象的です。

 参道の両脇には杉やヒノキなどの大木が聳え立っていて、まさに鎮守の森という雰囲気です。

手水舎・水盤

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。

二の鳥居

 手水を終えると、その先に茶色に彩色された靖国鳥居による三の鳥居が建立されています。材質までは確認してないのですが、二の鳥居も併せてこうして彩色さてている所を見ると、石造ではなく鉄造なのかな?って思っています。

社殿

 猿投神社の社殿は、妻入開放型の拝殿、その奥に四方殿、さらにその先に神門、その先に幣殿・祝詞殿がと続き一番奥に本殿が鎮座している社殿配置となっています。幣殿・祝詞殿・本殿は神門と瑞垣によって囲まれています。

 こちらが拝殿と四方殿になります。youtubeなどで猿投神社の大祭の動画を見ると、四方殿に各神輿が据えられている場面があるので、御旅所?の様な役割があるのかな。

 当サイトでも紹介していますが豊田市でよく見られる社殿配置であり、他の神社と同様に本殿を囲む瑞垣に設けられた神門まえで参拝するようです。

左鎌絵馬

 猿投神社には、左鎌の絵馬を掲げる風習があるようで、社殿脇の絵馬を掲げる場所には数多くの左鎌の絵馬が掲げられていました。様々な形状の左鎌絵馬がある事から、オリジナルの絵馬を作って掲げている方もみえるみたいですね。

境内社

 猿投神社の境内社は、猿投神社の本殿と並ぶ様に鎮座しており、それぞれ社の前に神門が造られていて、神門越しに参拝します。

 厳島神社は社向かって左側に造られた水場脇に鎮座されています。

太鼓楼

 寺院にあれば重層の鐘突堂となっていそうな雰囲気の太鼓堂になります。ここまで大きな太鼓堂がある神社は少ないんじゃないのかな。

地図で鎮座地を確認

神社名猿投神社
鎮座地愛知県豊田市猿投町大城五番地
最寄駅とよたおいでんバス藤岡・豊田線「猿投神社前バス停」徒歩1分

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