神社を巡る

射穂神社(愛知県豊田市保見町)延喜式内社

2021年12月7日

神社情報

神社名射穂神社
鎮座地愛知県豊田市保見町北山二十六番地
御祭神廣国坤武金日皇命
神前皇女
春日山田皇女
創 建白鳳元壬申年(672年)
社格等郷社
神名帳延喜式神名帳 三河国加茂郡 射穂神社
三河国神名帳 加茂郡正五位下 伊保天神
文化財
例大祭十月十五日
境内社八幡神社
津島神社
天神社
武稲種社
秋葉神社
金刀比羅社
八王子社
神明社
千穐稲荷社
御鍬神社
伊豆社
山神社
社宮司社
URL
御朱印
参拝日:2021年9月27日

御由緒

 社伝によると、創建は白鳳元年(672年)としているようです。

「白鳳」という元号は実は日本書記の中で登場していない元号となり、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号という扱いになっています。では白鳳という元号は西暦にすると何年~何年の間を指すのかというのにも所説あるようなのですが、寺社の由緒では672~85年の期間を白鳳年中とするところが多いそうです。

 射穂神社の白鳳元年(672年)としている所から、寺社で使われている白鳳年間を基本としてます。

 永承年中(1046-53年)に火災により灰燼に帰してしまった為、史料等は残っておらず、火災以前については不明となっていますが、再建時の棟札が残っている様で、永承七年(1052年)上伊保村を称していた「松平左兵衛尉定勝」により再建されたたと愛知県神社名鑑には記載されています。

 ここで一つ疑問が・・・。1052年ってまだ平安時代なのに松平姓を名乗る人物がいたのか?松平家発祥は室町時代になってからのはず。そもそも、平安時代の棟札があったら文化財指定になっているかと思います。

 色々調べてみると、射穂神社の近くには三宅氏が築いた「伊保東古城」があるのですが、この城を巡る史料に永正七年(1510年)松平定勝が伊保東古城を攻め取るとあります。伸張著しい松平家に対し周囲の豪族が決断して攻め込んだ戦いを「井田野の戦い」と言うのですがこの戦いで連合軍は惨敗。逆に松平家が攻めてきた勢力に対して反撃を行ったのでしょう。この伊保東古城を巡る戦いの中で射穂神社は兵火に罹り焼失してしまいますが、伊保東古城を攻め落とした松平定勝はこの地を納める為、この地の産土神となっていたであろう射穂神社の再建に取り掛かったのでしょう。

 この事から、愛知県神社名鑑などに記載されている永承七年(1052年)の社殿再建は、永正七年(1510年)の記載間違いであると思いますし、どうやら「射穂神社の由来」には永正七年再建と書かれているようです。

 慶長五年(1600年)、関ケ原の戦いで軍功を挙げた「丹羽氏次」は伊保村周辺で一万石を拝領し伊保藩を立藩しています。氏次は翌年の慶長六年(1601年)に亡くなり、次男である「氏信」が跡を継いでいます。そして、元和五年(1619年)に社殿を改修が行われています。

 江戸時代の宝暦年中(1751-64年)の頃までは加納和泉家という社家が祭祀を取り仕切っていたようですが、同じ伊保村内にあった永福寺(黄檗宗)が別当となり祭祀を行ってきたそうです。その当時は、蔵王宮と呼ばれ、本殿の御祭神について当時の住職は「中蔵王、左観音、右薬師なり。」と述べています。

  • 白鳳元年(672年)、創建
  • 延喜元年(905年)、延喜式神名帳に「三河国加茂郡 射穂神社」と記載。
  • 時期不詳、三河国神名帳に「加茂郡従正五位下 伊保天神」と記載。
  • 永承年中(1046-53年)、火災により焼失
  • 永正七年(1510年)、領主「松平定勝」社殿再建
  • 元和五年(1619年)、社殿改築
  • 明治五年(1871年)、郷社に列格

 明治維新を迎え、神仏分離の中、社名を射穂神社に戻しています。

六等級 伊保神社 旧郷社

鎮座地 豊田市保見町北山二六番地
祭 神 廣国坤武金日皇命、神前皇女、春日山田皇女
由 緒 創建は白鳳元壬申年(672年)九月と伝う。「延喜式神名帳」に加茂郡七座の内射穂神社「三河国内神名帳」に正五位下、伊保天神とある。永承年中に書類焼失したが、永承七庚午年(1052年)上伊保村領主松平左兵衛尉定勝再建する。元和五年(1619年)五月、本殿を改築した。境内社、八幡社は寛永十四年(1637年)、神明社、伊豆神社は元禄二年(1689年)、御鍬神社は寛保二年(1742年)、八柱神社は元禄十年、津島社は宝暦二年(1752年)、秋葉社は宝暦十四年に創立と記する。明治五年八月、郷社に列格する。同三十二年二月、拝殿を改築。大正十四年十一月三十日、社務所を新築した。昭和四十年三月、本殿をコンクリート造に改築。同五十三年八月、大鳥居建設。同年九月、六等級に昇級。同年十月社号標建立、同五十六年十月、社務所を改築。同六十年十月、手水舎を改築する。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

射穂神社の御祭神は?

 射穂神社の江戸時代までの御祭神は「蔵王権現、観音、薬師」であるとしていましたが、明治時代の神仏分離令によって現在の御祭神は、

  • 廣国押武金日皇命
  • 春日山田皇女
  • 神前皇女

となっています。

 現在の主祭神である「廣国押武金日皇命ひろくにおしたけかなひのみこと」は第二十七代安閑天皇の和風諡号になります。そして、配神である「春日山田皇女」は安閑天皇の皇后、「神前皇女」は安閑天皇の妹になります。日本書記によると、安間天皇、春日山田皇女、神前皇女は同じ陵墓に埋葬されたと記されており、射穂神社で三柱が御祭神となっているのはこの記述によるところが大きいのかもわかりません。

蔵王権現と安閑天皇

 蔵王権現の正式名称は「金剛蔵王権現」と称し、安閑天皇の和風諡号である「廣国押武金日皇命」共に「金」の文字が使われている事から蔵王権現と安閑天皇は同一視される事になります。
 ここだけ聞いたらめっちゃ強引な論理だなと思ってしまうのですが、「和漢三才図会」によると、蔵王権現と安閑天皇の関係性が下記の通り描かれています。

 俗伝曰人皇二十八代安閑天皇崩後至四年宣化天皇三年現干金峯山告人曰 吾是広国押武金日丸也 仍知権現乃安閑天皇也牟

【現代語訳】二十八代安閑天皇が崩御して四年後の宣化天皇三年に金峯山に現れた人が「我は広国押武金日丸(皇命)なり。(蔵王)権現は安閑天皇である。」と伝えた。
※安閑天皇は二十七代天皇ですので、二十八代となっているのは誤りかと思われます。

 蔵王権現は、修験道の開祖とされる「役行者」が吉野において修行中に示現したものであるとされ、吉野山の金峯山寺の本尊となっています。役行者は七世紀(600年代)に実在した人物とされていますが、後世においてあまりにも脚色されてしまっている為どこまでが本当の姿なのか分からなくなってしまっている人物でもあります。これに対し安閑天皇は六世紀(500年代)の人物であり、役行者が蔵王権現を示現させた時より一世紀も早く金峯山に蔵王権現が出現して、「我は安閑天皇である。」と宣言していたとしています。

 この事から、時期は不明ながらかなり古い時代から蔵王権現=安閑天皇という認識があったという事なのでしょう。もしかしたら、役行者は蔵王権現を安閑天皇と同一視する事で蔵王権現の神格化を行っていたのかもしれません

明治政府による神仏分離令

 こうした神格化を行っていた事から、明治時代に行われた神仏分離令によって、蔵王権現を祀っていた神社は御祭神を安閑天皇に変えていくことになります。また、蔵王権現を奉安していた寺院では神社化が行われ、安閑天皇を祭神とする神社へと組織替えを余儀なくされています。

蔵王権現と安閑天皇の同一視によって神格化を強めた結果、神仏分離令は修験道の本山である金峯山寺にもおよび、金峯山寺の廃寺と神社化がおこなわれてしまう遠因となってしまったのは何とも皮肉な結果ですね。

 先ほども述べましたが、全国にあった蔵王権現を祀る蔵王宮では、神仏分離令によって御祭神を安閑天皇に変更を行い神社化していった所が大多数なのですが、安閑天皇でも仏教色が強いと判断した所は、大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命、高皇産霊神などを御祭神とする神社となったようです。

延喜式内社巡りin三河国

 新型コロナウィルスパンデミックの早期沈静化を祈願する為に、まずは三河国内にある式内社を参拝して廻ろうかとおもっています。自分の神社巡りは、基本バイクを使って一人で巡って行くので、密にならず、ソーシャルディスタンスも確保し、さらに喋らないという感染防止策は万全の状態を維持しやすいかなと思っています。そこで、感染状況が改善しつつある時期を見極めながら参拝していき、その模様を紹介できたらと思います。

参拝記

豊田市街から瀬戸市方面に抜ける国道155号線の「保見町塚原交差点」から猿投方面に抜ける県道58号線に入り、すぐの交差点(和徳寺への看板が設置されている。)から細い路地を和徳寺方面に入り道なりに進むと途中、道路脇に射穂神社の一の鳥居があり、ここを過ぎると一気に上り坂になり、突き当りに射穂神社の二の鳥居から境内入口がみえてきます。

一の鳥居

 射穂神社の境内から南に離れた場所に一の鳥居、狛犬、石鳥居、社号標が据えられている場所が設けられています。一の鳥居から真っ直ぐ北を望むと、共用化された参道の先に二の鳥居がかすかにみえます。ここからみても射穂神社は山の中腹に鎮座している事がみてとれます。

 一の鳥居の脇に子乗り玉乗りの狛犬が一対が生息していました。中々特徴的なお顔をされていますね。

 一の鳥居を過ぎると、写真から読み取る以上に中々の急坂が射穂神社の境内入口に向かって続いています。

二の鳥居

 扁額の無い明神鳥居の二の鳥居が据えられています。この辺りから鎮守の森が広がっていて日が差し込みにくくなっているのか、参道には苔が生えていて少し滑りやすくなっています。

 少し注意しながら坂道を登っていくと、少し開けた場所があらわえれて、その先に社殿が見えてきます。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。

社殿

 かなり大型の入母屋造瓦葺妻入りの開放型の拝殿を有する社殿になります。三間×五間という規模の拝殿は見るだけで、ここの社殿は大きいなと印象を持たれる方が多くなる規模になるかと思います。しかも、この大きさの拝殿が開放型&妻入りとなっていて、より大きく感じてしまっているかと思います。

 社殿のすぐ手前まで山肌が迫っていて、フェンスが設けられていてその先は結構切り立った崖のようになっています。

 本殿は、神門と瑞垣で囲まれており、由緒でも紹介していますが、コンクリート造りの流造となっています。ここ射穂神社でも神門の前に賽銭箱が設置されており、ここから参拝する様式となっているようです。

狛犬

 本殿前の神門の脇に子乗り玉乗りの狛犬が一対据えられています。

境内社

 境内社は本殿の両側に六社の相殿と言う形で鎮座しています。

雷石

 先ほども述べましたが、射穂神社の拝殿前はフェンスが設けられていてまさ切り立った崖の様な急坂がせまってきているわけですが、この急坂を降り立った場所に「雷石」が祀られています。

 雷石の場所までは手水舎の近くから徐々に坂を下って向かう訳ですが、雷石の場所から北側の見上げると、拝殿の屋根が迫ってくるように見えてきます。

 こうみても、かなりの急坂が続いている事がわかりますね。

 この雷石がどういった由緒あるのかは不明ですが、こうして巨石が顔を出しているそれに神威を感じて祀っているという事は、射穂神社は元々修験道の神社だったはずなので、山岳信仰・巨石信仰が根底にあるということなのかな。

地図で鎮座地を確認

神社名 射穂神社
鎮座地愛知県豊田市保見町北山二十六番地
最寄駅愛知環状鉄道 「保見駅」徒歩17分

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