
神社情報
神社名 | 気比神宮 |
鎮座地 | 福井県敦賀市曙町11-68 |
御祭神 | 伊奢沙別命 仲哀天皇 神功皇后 日本武尊 応神天皇 玉姫命 武内宿禰命 |
創 建 | 創祀は不詳 創建は仲哀天皇年間 |
社格等 | 官幣大社 |
神名帳 | 延喜式神名帳:越前國敦賀郡 氣比神社七座 並名神大 越前国神名帳:正一位勲一等 氣比大明神 越前国一宮 |
例大祭 | 九月四日 |
境内社 | 角鹿神社(御祭神:都怒我阿羅斯等命、松尾大神) ・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 角鹿神社 ・越前国神名帳:正四位 敦賀神 伊佐々別神社(御祭神:御食津大神荒魂) 天利劔神社(御祭神:天利劔大神) ・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 天利劔神社 ・越前国神名帳:正四位 天利釼神 天伊弉奈姫神社(御祭神:天比女若御子大神) ・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 天比女若御子神社 ・越前国神名帳:正四位 天若神子神 天伊弉奈彦神社(御祭神:天伊弉奈彦大神) ・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 伊佐奈彦神社 ・越前国神名帳:正四位 天伊佐奈彦神 大神下前神社(御祭神:大己貴命、稲荷神・金刀比羅神) ・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 大神下前神社 ・越前国神名帳:従五位 大神下前神 擬領神社(御祭神:武功狹日命) 劔神社(御祭神:姫大神尊) 金神社(御祭神:素盞鳴尊) 林神社(御祭神:林山姫神) 鏡神社(御祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊) 兒宮(御祭神:伊弉冊尊) 猿田彦神社(御祭神:猿田彦大神) 神明両宮(御祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)) |
御朱印 | ○ |
URL | https://kehijingu.jp/ |
御由緒
いつ頃から主祭神である伊奢沙別命が奉斎されてきたのかは不明ですが、古来より自然信仰の様な形で祀られてきたと考えられます。神社として祀られる様になったのは、日本書記の仲哀天皇または神功皇后の段に敦賀に行幸され、現在の気比神宮の境内の場所に角鹿笥飯宮を造営、滞在をしていた時期に崇敬を受けてからだと考えられます。
日本書記では、角鹿笥飯宮に滞在してた仲哀天皇は、この地に神功皇后を残して、紀伊国に移っていき、その地で九州南部を支配していた「熊襲」が朝廷に対して反旗を翻したという報を受け、急遽穴門の豊浦津に向かう事になります。この時、敦賀にいた神功皇后の下に使いを走らせ、「穴門の豊浦津にて落ち合おう。」という旨を伝えたとされ、神功皇后は角鹿より海路にて穴門の豊浦津に向かったと記されています。
神功皇后が角鹿を離れる時、行宮であった笥飯宮に伊奢沙別命を祀ったのではないかなと個人的に感じています。これなら気比神宮の境内地は笥飯宮の跡地に鎮座しているいう伝承も納得できます。
その後、文武天皇の御代になる大宝二年(702年)に勅命により社殿を修営され、この時に、本殿に仲哀天皇・神功皇后を合祀、本殿周りに日本武尊・応神天皇・玉姫命・武内宿祢命の四柱を祀る「四社之宮」を造営しています。この時に、現在の御祭神に繋がる七柱が奉安されることになります。
その後、奈良時代、平安時代、鎌倉時代と時代は過ぎていきますが、この間に朝廷の庇護もあり、かなり広大な社領を有していたと伝えられています。南北朝時代にはこの敦賀周辺が南朝方の拠点の一つなっていて、気比神宮の北東に位置する場所は「金崎城」が築城され、後醍醐天皇の皇子である恒良親王・尊良親王を初め、新田義貞などが北朝軍を迎え撃っています。最終的には北朝に金崎城は攻め落とされて、新田義貞は逃げ延びますが、恒良親王・尊良親王は討ち死にしています。この戦いで気比神宮も南朝方に与していたことから、戦後社領を大幅に没収されますがそれでも「二十四万石」の社領が残ったというのですから、元々何万石有していたのでしょうか。
室町時代になると、越前国の守護大名「朝倉氏」による庇護を受け、社殿の造営などが行われた様ですが、戦国時代に突入すると、織田信長が朝倉氏攻めを行い、朝倉氏の支城である金崎城を攻め入ります。この時も気比神社は朝倉氏側に与していた事もあり、織田軍による兵火により政所神一宇、炊殿神楽殿を残してすべて灰燼に帰してしまったと伝えられています。一度は浅井長政の織田家裏切りもあり、織田信長は撤退していきますが、更に後年朝倉攻めが行われ、金崎城とは尾根続きである天筒山城に神官、神宮寺の僧侶が立て籠り抵抗したと伝えられていますが、すべて離散、祭祀も断絶してしまったそうです。
その後、徳川家康の次男「結城秀康」が関ケ原の合戦後越前国に入封すると、慶長八年(1603年)に気比神宮の社殿造営が執り行われます。慶長十九年(1614年)に本殿が再建され遷宮が執り行われています。
慶長十九年に再建された本殿が太平洋戦争時の空襲によって焼失してしまった旧国宝の本殿になります。

気比神宮の旧本殿の写真が中々見つからなかったのですが、なんとか「福井県敦賀郡誌」に一枚だけ写真が載っていたので、拝借して紹介します。大正四年に発刊された本ですので、著作権は大丈夫かと思いますが、問題があればご連絡下さいませ。
写真では分かりにくいのですが、旧本殿は「両流造」という独特な様式だったそうです。本殿の内部は外陣と内陣に分けられていて、内陣の一番奥に本殿の祭神である伊奢沙別命・仲哀天皇・神功皇后が祀られていた様です。
気比神宮の遷宮と同時に社家八家が復興し、社領百石が寄進されています。
明治時代になり、明治四年七月国幣中社に列格。明治二十八年一月八日に官幣大社に昇格し、同年三月二十六日に神宮と称すべき旨宣下される。
明治十年三月二十一日、御子神社の内、角鹿神社・伊佐々別神社・天利劔神社・天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の五社を境内摂社に、常宮に鎮座し常宮神社及び常宮神社の末社である玉佐々良彦神社・天鈴神社・天国津比咩神社・天国津彦神社の五社を境外摂社とする。
昭和二十年(1945年)、太平洋戦争時の敦賀空襲により鳥居を除く社殿を焼失。昭和二十五年に本殿の再建、昭和三十七年に拝殿、社務所の再建などが行われ、昭和五十七年に「昭和の大造営」が行われ、それ以降も適時改修造営が行われています。
参拝記

重要文化財である気比神宮の大鳥居は、境内の南西側に据えられています。JR西日本の敦賀駅から大通りを道なりに進んでいくと、交差点の角に朱塗りの大鳥居が建っているのが見えてきます。この敦賀駅から気比神宮の大鳥居が建っている交差点までの大体1kmちょいの通りには・・・

何か立っています。(アーケードのせいで思ったような写真が取れなくて残念・・)
大鳥居

気比神宮の象徴の一つがこの朱塗りの大鳥居ではないでしょうか。木造の両部鳥居としてはかなり規模が大きく、調べてみると日本三大木造鳥居の一つに名を連ねているそうです。

鳥居は少し斜め方向から見上げるアングルが好きです。お昼過ぎから参拝するときれいな朱色の鳥居が撮影できそうですが、朝一だと思いっきり逆光になってしまいますね・・・。

そう思って反対側を撮影してみると・・・うん、きれいな朱色が出てる。空の青色と境内の木々の緑色とのコントラストが綺麗ですね。
社号標

旧社格である官幣大社が合わせて彫られている気比神宮の社号標になります。官幣社の社号標と見ていると、石柱全体を使用して社格と社名がハッキリと彫られている所が非常に多いですね。官幣社は国が管理しているので全国的に統一されていたのかもしれません。
手水舎

銅板葺四本柱タイプの手水舎になります。石と木のハイブリッド構造の様に見えます。
コロナ禍の為、柄杓が撤収されているのですが、給水口から常に水が流れていて水を手ですくって手水する事が可能です。
中鳥居

社殿、授与所などを囲む瑞垣に設けられている中鳥居になります。こちらの鳥居も朱塗りの両部鳥居となっています。こちらの中鳥居は昭和になって再建された鳥居ですね。
社殿

朱色の柱と白壁のコントラストが非常に目を引く拝殿を有する社殿になります。切妻造銅板葺平入の大屋根に入母屋屋根に唐破風が設けられている向拝のある拝殿になります。

写真だと分かりにくいですが、焼失前の本殿の造りに准じている様で、両流造屋根が非常にひく本殿になります。ただ惜しむべきは、本殿を囲む瑞垣がブロック塀&有刺鉄線・・・かなり残念です・・。

ちなみに、瑞垣の中の本殿の脇に鎮座している社は、「四社之宮」になり、本殿を挟んだ反対側にも社が二基鎮座しています。どういった順番でならんでいるのかはここからではわからないのですが、
- 東殿宮:日本武尊
- 総社宮:応神天皇
- 平殿宮:玉姫命
- 西殿宮:武内宿禰命
の四社が鎮座しています。因みに、こちら四宮、一社ごとに延喜式内社になっています。
境内社
猿田彦社


御祭神は猿田彦大神
安永四年(1775年)に鎮座。気比大神を案内される神であり、交通安全、家内安全の御神徳は高く日々の参拝者は頗る多い。俗に庚申さまと唱えられている。
朱塗りの大鳥居からすぐの場所に鎮座している気比神宮の末社で、安永四年に奉納された常夜燈には庚申神社と彫られていて、明治になり神仏分離令により社名を変更したのだろうと思われます。
伊佐々別神社

御祭神は御食津大神荒魂
漁労を守る神であり北方の海に面す。応神天皇皇太子の時當宮に参拝せられ、夢に大神が現れ御名を易える事を約し、その威徳により翌朝笥飯の浦一面余る程の御食の魚を賜った。天皇喜び御神威を畏み、気比大神の荒魂を勧請崇祀された社である。
擬領神社

御祭神は武功狹日命
社記に武功狹日命と伝えられ、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも伝う。旧事記には「蓋し当国国造の祖なるべし」とある。
天伊弉奈彦神社

御祭神は天伊弉奈彦大神
・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 伊佐奈彦神社
・越前国神名帳:正四位 天伊佐奈彦神
続日本後記に承和七年(840年)八月、越後国従二位勲一等気比大神皇子無位天利剣神、天比女若御子神、天伊弉奈彦神、並従五位下を奉授せらるとある。

天伊弉奈姫神社
御祭神は天比女若御子大神
・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 天比女若御子神社
・越前国神名帳:正四位 天若神子神
社家伝記に、伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと伝う。古来より縁結びの御神徳が顕著である。

天利劔神社
御祭神は天利劔大神
・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 天利劔神社
・越前国神名帳:正四位 天利釼神
仲哀天皇当宮に参拝、宝剣を奉納せられ霊験いと奇しと伝わる。後に祠を建てて天利劔宮と称え信仰される。

鏡神社
神功皇后角鹿に行啓の際、種々の神宝を捧げ奉った。その中の宝鏡が霊異を現したので別殿に国常立尊と共に崇め天鏡宮と称え奉ったという。慈悲之大神として知られる。

林神社
御祭神は林山姫神
福徳円満の大神。延喜式所載の越中国砺波郡林神社と御同体である。延暦四年(785年)、僧最澄気比の宮に詣で求法を祈り、同七年再び下向して林神社の霊鏡を請い比叡山日枝神社に遷し奉った。当社が江州比叡山気比明神の本社である。

金神社
御祭神は素盞鳴尊
家内安全の神とされる、延暦二十三年(804年)八月二十八日、僧空海当宮を詣で、大般若経一千巻を轉読求法にて渡唐を祈る。弘仁七年(816年)に再び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷し鎮守の社として。即ち紀州高野山の気比明神はこれである。

劔神社
御祭神は姫大神尊
剛毅果断の神として往古神明の奇瑞があり、莇生野村へ勧請し奉ったと伝えられる。

神明両宮
御祭神は天照皇大神(内宮)と豊受大神(外宮)
外宮は慶長十七年(1612年)三月二十八日、内宮は元和元年(1615年)九月二十八日に伊勢の神宮よりそれぞれ勧請奉祀される。

角鹿神社
御祭神は都怒我阿羅斯等命
崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われる。

兒宮
御祭神は平安朝時代、花山天皇寛和2年9月20日遷宮の事が残されており、その以前より御鎮座の事があきらかである。徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤い。拝殿には、母子大小の狛犬が御護りする。伊弉冉尊

大神下前神社
御祭神は大己貴命、稲荷神・金刀比羅神
・延喜式神名帳:越前国敦賀郡 大神下前神社
・越前国神名帳:従五位 大神下前神
敦賀市内氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
土公

気比神宮の境内地の北東側に令和三年三月に廃校となった学校の敷地の中に木々が生い茂った場所があります。学校の敷地にあるというその場所は、気比神宮にとっては非常に重要な場所であり、何やら学校の生徒にも絶対に入らない様にと教えていたそうで、現代では「禁足地」になっています。
古代仏教の二大エースと言っても過言ではないかと思う「最澄」と「空海」もこ土公において七日七夜に渡る大行を執り行ったと伝えられる場所になります。
御朱印
地図で鎮座地を確認
神社名 | 気比神宮 |
鎮座地 | 福井県敦賀市曙町11-68 |
最寄駅 | JR西日本「敦賀駅」徒歩17分 福井鉄道・敦賀コミュニティーバス「気比神宮前バス停」徒歩2分 |