神社を巡る

謁播神社(愛知県岡崎市東阿知和町)延喜式内社

2021年9月22日

神社情報

神社名謁播神社
鎮座地愛知県岡崎市東阿知和町北山39
御祭神知波夜命ちはやのみこと
春日大神
須佐之男命
創 建不詳
社格等郷社
神名帳延喜式神名帳 三河国額田郡 謁播神社
三河国神名帳 額田郡正三位 謁磐大明神
文化財
例大祭十月十日
境内社
URL
御朱印
参拝日:2021年9月21日

御由緒

 まだ日本がヤマト朝廷と称していた頃、尾張から三河にかけての地域は「物部氏」が治める地域であったと言われています。

ヤマト朝廷の豪族「物部氏」の三河支配

 第十三代成務天皇の御代において、三河国造に任ぜられたのは物部氏の祖と伝えられる「知波夜命」であり、物部氏の一族を率いて阿知和に居を定め、三河国の矢作川流域を中心に統治したと伝えられています。「知波夜命」が亡くなると、牛下山に埋葬(於新造古墳)され、知波夜命を御祭神とする社が建立されたと伝えられ、この社が謁播神社であるという。

岡崎市北部には、物部氏の勢力圏であったことを示す神社・寺院が多数現存しています。何時頃から三河国が物部氏の勢力下に入ったのかは不明ですが、尾張国と並び三河国は物部氏にとって非常に重要な領地であったはずです。

【物部氏に関連すると伝えられる神社・寺院】

  • 謁播神社
  • 村積神社
  • 経津主神社
  • 七所神社
  • 真福寺
  • 北野廃寺

 真福寺や村積神社が創建されたのは推古天皇の御代であると伝えられ、物部守屋が蘇我馬子と戦って討ち取られた後も、三河国は依然として物部氏の勢力下であったことがわかります。

いつ頃「春日大神」を合祀したのか?

 物部氏の三河統治の象徴ともいえる「謁播神社」ですが、その御祭神に「春日大神」が祀られているいます。春日大神はその名から奈良県の「春日大社」の御祭神の四柱を合わせた総称であると言われています。この四柱とは、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神になります。前二柱は中臣氏・藤原氏の守護神といわれ、後二柱は中臣氏・藤原氏の祖神であると伝えられている神々になります。なぜ、謁播神社に藤原氏にゆかりのある「春日大神」が祀られるようになったのか。

 謁播神社の社家である安藤家による伝承では、

 白鳳年中今上帝當国引馬野まで行幸の時、尾張国より當国に移り給ふ時海上風雲生じ帝恐れをなし帝甚苦難し給う。臣種々労すれども防事不及此地を鳴海と称す就中空中に紫雲棚引妙肇有りて帝の危難を救い給う。海上の黒雲忽ち去る。帝叡威の餘り空中の妙肇に勅問し給う。空中より臣として帝の危難を外にせんや重ねて勅問あり勅に応じて當国守護に鎮座する謁播小社なりと言下に紫雲忽去帝叡威の餘御遷幸の後臣壹人を給りて此神を守護する。是安藤主計の祖也。苗は藤原の末孫也神同苗を恐れて安藤に改者也

 と伝えられています。

 上記伝承をかいつまんで訳してみると、白鳳年中に今上天皇が三河国の引馬野(現在の豊川市御津町あたりか?)に尾張国から海路で向かっている途中、時化に遭遇したが謁播神社の御祭神の力で無事時化を乗り切る事ができたので、行幸を終えると天皇は臣を一人謁播神社に向かわせた。この臣が謁播神社の社家「安藤氏」の祖である。

 あまりかいつまんでいない気もしますが、こんな感じですかね。この安藤氏の祖となる臣は、藤原氏の末裔であるとしています。安藤と称して謁播神社の祭祀を執り行っていく中で、藤原氏の守護神である「春日大神」を合祀したのでしょう。

この伝承で出てくる「今上帝(天皇)」は一体誰なのか?

愛知県神社名鑑の由緒をでは「天武天皇」であるとし、謁播神社の社頭由緒書には「弘文天皇」であるとしています。この違いは、白鳳年中を西暦何年とするかで大きく変わってくると思われます。どうも謁播神社にまつわる由緒などでは、白鳳年中を672年としているようですが・・・実は元号の中に「白鳳」というのは存在しません。白雉の別称が白鳳なのではないかとも言われたりもしている様ですが、白鳳年中というと天智天皇から天武天皇のあたりというほわーんとしたハッキリしない年代を指す非公認?元号のようです。ただ、先にも述べましたが、白鳳年中=672年であるとすると、この672年は弘文天皇と天武天皇が戦った「壬申の乱」が起きた年になります。ただ、弘文天皇は明治三年に送られた諡号であり、それ以前は大友皇子と呼ばれていたはずなので、伝承が明治に入って書き換えられていない限り、今上帝は天武天皇であるという事になります。まあ、672年であるという確証もないわけですから、今上帝が天智天皇である可能性も0ではない訳です。

豊田市(旧足助町)にも謁磐神社が鎮座する

 鎌倉時代から南北朝時代にかけての戦乱の中、社家である安藤氏は戦乱を避ける為、矢作川支流の阿摺川あずりがわ沿いの阿摺郷と呼ばれる周辺に移住し、元々の産土神として祀られていた白鳥大明神に謁播神社の御祭神の分霊を合祀したと伝えられています。この神社が現在の川原宮謁磐神社となります。

神社名川原宮謁磐神社
鎮座地愛知県豊田市御蔵町粟下シ2

  豊田市立御蔵小学校を目印に向かい、学校の前を流れる阿摺川に沿って走る県道357号線を東に向かうと川の対面に鎮座する神社になります。最近、川原宮謁磐神社の本殿と境内社である八幡社の社が愛知県文化財に指定されています。

 伝承では謁播神社が兵火に罹り焼失した為、足助の阿摺郷に遷座したとされていますが、安藤氏から離れて別当寺による祭祀が行われていたとはいえ、阿知和に謁播神社が残っている事から、安藤氏は足助に移住する際に御祭神の分霊を足助の地に遷座させたのだろうと思われます。

謁播神社は別当寺によって祭祀が行われる

 安藤氏が去った後の阿知和に鎮座する謁播神社は、別当寺である真宗本願寺派である松林寺により祭祀が執り行われており、現在も謁播神社と松林寺は境内を一にするように建っています。

 浄土真宗の寺院が神社の別当を務めるのはそんなに多くないかと思います。というか、今の真宗のスタンスから考えると別当を務めていた寺院があった事すら驚愕してしまう訳ですが。

 その後、明治維新を迎え、松林寺の別当から離れ、郷社「謁播神社」として阿知和地区の産土神として崇敬を集めている神社となっています。

「延喜式神名帳」に額田郡、謁播神社とあり「国内神名帳」に正三位、謁磐大明神、「文徳実録」に仁寿元年(851年)十月、三河国謁磐神従五位下を授くとある。「国造本記」物部連の祖、出雲色大臣命の五世の孫、知波夜命が三河国の国造となる。知波夜命この村に住むと今牛下山の大古墳は命の塚という。みなその徳を追慕して神社を建立すと、白鳳年中(672年)天武天皇、尾張より三河へこられた時海上にて"しけ"にあい難破す。謁磐の神の助けあり引馬野に到る報賽の為社殿をたて祭事につとめた。正応五年(1292年)十一月、社地七十石と記録あり。古く貴き神社なり。明治五年十月十二日、郷社に列し、同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定をうけた。昭和三年四月六日、境内社の津島社を本社に合祀した。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

延喜式内社巡りin三河国

 新型コロナウィルスパンデミックの早期沈静化を祈願する為に、まずは三河国内にある式内社を参拝して廻ろうかとおもっています。自分の神社巡りは、基本バイクを使って一人で巡って行くので、密にならず、ソーシャルディスタンスも確保し、さらに喋らないという感染防止策は万全の状態を維持しやすいかなと思っています。そこで、感染状況が改善しつつある時期を見極めながら参拝していき、その模様を紹介できたらと思います。

参拝記

 謁播神社のすぐ南側を矢作川の支流「青木川」が流れています。この青木川を矢作川方面に下っていくと、徳川四天王のひとり「本多平八郎忠勝」の生誕の地があったりするそんな場所(とはいっても少し離れていますが)に謁播神社は鎮座しています。

 謁播神社の社殿から真っ直ぐ青木川にむかって参道がのびています。今でこそ堤防があってその造りに多少違和感を感じてしまいますが、堤防がなかった時代は青木川沿いは人が往来する道があったんだろうなと想像してしまいます。

 鳥居、神門、社殿と南向きに真っ直ぐ一列に並んだ社殿配置となっています。

社号標

 旧社格「郷社」と延喜式内社であることが彫られている社号標になります。
 額田郡に二座ある式内社の内の一社になります。もう一社は同じ岡崎市内に鎮座する「稲前神社」になります。

神門

 朱塗りの袖壁が設けられている四脚門造の神門になります。
 この朱塗りの四脚門ですが、岡崎城の念佛堂赤門を移築したものだと伝えられています。城内の念仏堂とは一体どこなのか・・・。持仏堂曲輪と関係があるのかな?

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。その隣に寄り添う様な形で生えている巨木は御神木の様で、木のまわりに注連縄が巻かれています。

狛犬

昭和三十八年生まれの子乗り・玉乗りの狛犬一対です。

社殿

 入母屋造瓦葺平入の拝殿を有する社殿になります。本殿は入母屋造妻入りの覆殿の中に鎮座している様です。

地図で鎮座地を確認

神社名謁播神社
鎮座地愛知県岡崎市東阿知和町北山39
最寄駅名鉄バス「青木町バス停」徒歩12分

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