神社を巡る

赤日子神社(愛知県蒲郡市神ノ郷町)延喜式内社

神社情報

神社名赤日子神社
鎮座地愛知県蒲郡市神ノ郷町森五十八番地
御祭神彦火火出見尊
豊玉彦命
豊玉姫命
創 建不詳
社格等縣社
神名帳延喜式神名帳:三河国宝飯郡 赤日子神社
三河国神名帳:宝飯郡正二位 赤孫大明神
文化財国 宝:ー
国指定:ー
県指定:ー
市指定:大般若経、大和絵襖、狛犬、石斧
例大祭十月第一日曜日
境内社稲荷社
八幡社
金刀比羅社
高松神社
山御堂神社
社口神社
聖山神社
養蚕祖神碑
URL
御朱印
参拝日:2021年12月8日

御由緒

 赤日子神社は遠州灘、三河湾、伊勢湾の海路の安全と、恵の天を祈願する為、「聖山」を御神体とし、その山頂に祭祀を執り行う磐座を設ける原始神社形態で創建されたと考えられています。現在でも、磐座跡を赤日子神社奥の宮として大切に奉斎が行われています。
 そして聖山の里宮として創建されたのが赤日子神社になるかと思います。この赤日子神社の創建については不詳となっていますが、「日本総国風土記」という書物には、「赤日子神社 祭神海神綿積豊玉彦神也安曇氏祭司也天智天皇甲戌九月始奉圭田加神禮有神家巫戸等」記されていて、安曇氏の祖神である「海神綿積豊玉彦神」を祀り創建された神社であると考えられます。天智天皇甲戌は西暦674年になりますので、少なくともこれ以前には海神とされる「豊玉彦神」を御祭神として創建されていたのではないかと思われます。

聖山のお皿様

 聖山に山頂ちかくに鎮座する磐座跡ですが、現在では「聖山のお皿様」とも呼ばれているようで、このお皿様に纏わる昔話が伝えられています。

「磐座の頂上部分は平らになっており、お皿ほどの窪みがあったことから”お皿様”と呼ぶようになったという伝説があります。そして、この伝説では、お皿様には常に水が満ちていました。しかし、聖山の雨乞いの神事を信じていない小僧がいて、ある日、このお皿様に小便をしてしまいます。すると、岩は割れ、水が岩に吸い込まれる様になくなってしまい、小僧は怖くなって逃げ去ったといいます。が、その後、小僧は血を吐いて死んでしまったんだとか。

 古代日本の神社において、降雨祈願(雨乞い)というのはかなりの比率を占めていたのではないかと思います。現代日本の様に気象衛星がある訳でも気圧計などがあるわけでもないので「雨=神の御恵」と考えるのは当然であり、逆に言えば現代社会でも水不足が深刻になってくると雨乞い神事が行われる訳で、「神社=降雨祈願」という考えは日本人の深層心理として中々変わらないものなのかもしれません。

 聖山山頂ちかくに鎮座する磐座になります。現在でも赤彦神社の奥宮として祀られていて、毎年七月に奥宮祭が執り行われています。

  • 仁寿元年(851年)十月、文徳実録に「従五位下」の神位を授かると記載。
  • 延喜元年(905年)、延喜式神名帳に「三河国宝飯郡 赤日子神社」と記載。
  • 時期不詳、三河国神名帳に「碧海郡正二位 赤孫大明神」と記載。
  • 戦国時代、上ノ郷城主「鵜殿氏」の祈願所となり、鵜飼長持、般若経六百巻を奉納。
  • 明治五年(1872年)、村社に列格
  • 明治十二年(1878年)、郷社に昇格。
  • 大正五年(1916年)、縣社に昇格。

上ノ郷城主「鵜殿氏」

 蒲郡市の指定文化財となっている「般若経六百巻」を寄進した「鵜殿長持」の居城「上ノ郷城址」が赤日子神社の北西側にあり、現在では案内看板が設置されているので、その位置関係が容易に理解できるかと思います。

鵜殿氏とは

 一説には、紀州、熊野三山の別当家出身で新宮鵜殿村に住した事から「鵜殿姓」を称し、熊野別当家の荘園が三河国宝飯郡にあった事からその荘園の管理(地頭職?)の為に三河国に渡ってきた一族になるようです。

 今川義元による三河国支配が確立されると、鵜殿長持は今川義元の妹を娶り今川一族に准ずる格式を得て、現在の蒲郡市一体を支配していきます。しかし、永禄三年に桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、徳川家康が独立すると、今川氏に臣従する道を選んだのは宗家筋である上郷鵜殿家の鵜殿長持の一族のみで、その他の鵜殿氏の庶家は徳川家康に臣従する道を選び、一族が分裂してしまいます。

 ちなみに、鵜殿長持の嫡子「鵜殿長照」は、今川義元の尾張侵攻の際、大高城主を任じられており、織田家による兵糧攻めを受ける中、雑草までも食べて籠城を続けたとしてその名が知られています。その後、徳川家康(当時は松平元康)による大高城兵糧入れによって徳川家康が大高城に入城すると城主が家康に移っていて、長照は家康の指揮下に入ったと思われます。

永禄五年(1562年)、三河統一を目指す徳川家康の軍勢が上ノ郷城を包囲、攻め立てますが中々落城させる事ができず、この時、家康は初めて”忍者”が実践投入し、上ノ城に火を付け、落城させています。この戦いで鵜殿長照は戦死、長照の子「氏長」と「氏次」は捕らえられています。
 上ノ郷城を攻め落とした徳川家康は、上ノ郷城攻めに功をあげた家康の継父である「久松(松平)俊勝」に与えています。

 戦いの後、今川氏真との間で鵜殿氏長、鵜殿氏次と、家康の正室「瀬名姫」と嫡男「竹千代(松平信康)」と長女「亀姫」の人質交換が行われています。

 赤日子神社の周囲にはこうした歴史を示す様に、鵜殿氏または久松松平氏所縁の史跡が数多く存在していますので、赤日子神社を参拝された時に合わせて巡ってみてはいかがでしょうか?。

赤日子神社の御祭神は?

赤日子神社の御祭神社は

の三柱であるとしています。

 先に紹介した「日本総国風土記」に書かれている「赤日子神社 祭神海神綿積豊玉彦神也安曇氏祭司也天智天皇甲戌九月始奉圭田加神禮有神家巫戸等」 の中に登場する「安曇氏」の祖神である「豊玉彦神」を主祭神とする神社であると考えられ、その娘である「豊玉姫命」とその婿である「彦火火出見尊(山幸彦)」を配祀神としています。

安曇氏とは?

筑前国糟屋郡阿曇郷を本拠としてきた一族であると考えれています。古代日本を代表する「海人族」であり、大陸との交易などを掌握する事で強大な権力を有するようになり、日本書紀では応神天皇の御代に「海人の宗に任ぜられた。」と記されています。日本各地に安曇氏の名にちなんだ地名が付けられているとされ、当時の安曇氏の繁栄を示しているそうです。

 愛知県の渥美半島・・・静岡県の熱海・・・等々

 安曇氏が何時頃ヤマト朝廷に臣従したのかは不明ですが、安曇氏が祖神として崇敬している豊玉彦神(綿津見神)を伊邪那岐から生まれたとして日本神話に組み入れ、更にその娘が天皇家に嫁ぐと描かれているなど天皇家との強力な関係性が感じ取ることでき、ヤマト朝廷として安曇氏が有する海軍力を無視する事ができず、安曇氏をいかに組み入れるかという事に苦心していたのではないでしょうか。

 それだけ、大陸との交易をおこなう氏族には冨と権力が集中しやすく、特にその取りまとめ役になった安曇氏はとてつもない権力を有していたと思われます。

豊玉彦命

豊玉彦命は日本書紀で「海神豊玉彦」、または「少童命わたつみのみこと」、「海神わたつみ」と登場する神名で、古事記では「大綿津見神」または「綿津見大神」であるとしています。

豊玉彦命は「海の霊格」という神意があり、伊邪那岐と伊邪那美の「神産み」によって「海の神」として出現しています。

 古事記においては、更に伊邪那岐が黄泉の国から逃げ帰ってから行った「禊」の中で水の中に潜って穢れを洗い流した時に「底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神」の三柱が出現しています。この三柱の綿津見神が大綿津見神と同一神なのか別神なのかは議論が分かれる所なんだとか。
 ただ、ヤマト朝廷が勢力を伸ばしていく中で、安曇氏だけではなく、全国各地(特に九州?)の海人と呼ばれる一族を吸収していく中で、それぞれが信仰していた神をそれぞれ綿津見神として吸収させていったのでは?。

彦火火出見尊

 彦火火出見尊は日本書記に登場する神名で、古事記では「火遠理命」と記されており、天孫である「邇邇芸命」と「木花之佐久夜毘売」との間に生まれた神になります。

 兄である火闌降命(海幸彦)の「釣り針」を亡くしてしまった為、塩土老翁に海神の元に送ってもらった時に、湯津社の樹の元で豊玉姫と出会います。海神に釣り針を探しあてるが、すぐには釣り針を渡さず、豊玉姫を娶らせて海に留めさせていますが、数年たつと海神は釣り針を渡し陸に戻り、海神に教えられた通りに火闌降命を打ち破っています。
 その後、豊玉姫命との約束通り産屋を建てて待っていると、妹の玉依姫を従えて豊玉姫命が出産の為に海辺に現れ、産屋にて出産を行う際、「中は覗かないように。」と念を押されますが、我慢できずつい覗いてしまいます。産屋の中では豊玉姫は龍(古事記では八尋和邇)に変化していた。豊玉姫命は正体を見られたことを恥、産んだ子を置いて海に戻ってしまい、竜宮への道を閉じてしまった。

豊玉姫命

 豊玉姫は日本書記で登場する神名で、古事記では「豊玉毘売」と記されており、海神の娘で海の底にある海神の宮(竜宮)に住んでいます。

 彦火火出見尊に嫁いだ豊玉姫命は、彦火火出見尊が海に戻る時に妊娠している事を伝え、陸に戻った後、海辺に産屋を建てて待っていてほしいと伝えます。
 そして、その後、妹である玉依姫を従えて海辺に建てられた産屋にて出産を行いますがこの時、彦火火出見尊に「絶対に中を覗かないように。」とお願いしますが、我慢できなかった彦火火出見尊にその正体を見られてしまい、出産した子を置いて海に戻ってしまった。

     日子番能邇々藝尊 
         ┣━━━━┳火照命
大山祇神━木花之佐久夜毘売 ┣火須勢理命
              ┗火遠理命
                ┣━━━━━鸕鶿草葺不合尊
        海神豊玉彦命豊玉姫命      ┣━━━神武天皇
              ┗━━━━━━━━━玉依姫命

 豊玉彦は娘二人が神武天皇の祖父「火遠理命」と神武天皇の父「鸕鶿草葺不合尊」に嫁いでおり、神武天皇の外祖父にあたることになり、神武天皇率いるヤマト朝廷に対して非常に強い影響力を有していた事が読み取れ、海に囲まれた日本にとって「海」という存在と大陸との交易または渡来人の来訪が非常に重要だった事がこの辺りからも推測できるのかなと勝手に思っているのですがどうですかね。

 そして、この赤日子神社が鎮座する辺りも三河湾に面しており、また安曇氏の名にちなんだとする渥美半島からも近い事から、安曇氏一族がこの辺りにも勢力を伸ばしていたんでしょうね。三河湾、伊勢湾の漁業並びに海路の安全を祈願する為、聖山で祭式を行い、麓に赤日子神社を創建した・・・のかも。

延喜式内社巡りin三河国

 新型コロナウィルスパンデミックの早期沈静化を祈願する為に、まずは三河国内にある式内社を参拝して廻ろうかとおもっています。自分の神社巡りは、基本バイクを使って一人で巡って行くので、密にならず、ソーシャルディスタンスも確保し、さらに喋らないという感染防止策は万全の状態を維持しやすいかなと思っています。そこで、感染状況が改善しつつある時期を見極めながら参拝していき、その模様を紹介できたらと思います。

参拝記

 今回参拝する赤日子神社は蒲郡市立蒲郡西部小学校の東側に鎮座しています。この参道(一般共用されていて車で通行できます。)の突き当りに赤日子神社の境内があり、その西側に参拝者用の駐車場が設けられています。

参道入口

 参道入口に据えられている扁額の掲げられた明神鳥居による一の鳥居になります。参道は一般道共用が行われていて、鳥居を車で潜る事ができます。そして、色々な石造物が据えられている入口部分には、コミュニティーバスのバス停が設けられるなど少し広めに敷地が確保されています。

社号標

 参道入口には社号標が二本据えられていて、こちらが旧社格である「縣社」が彫られたタイプの社号標になります。そして

 こちらが、縣社に昇格する前「郷社」時代の社号標になります。「延喜式内」と式内社であることが彫られ、更に「正二位」と三河国神名帳に記載されている神階が彫られています。

石灯籠

 参道を進んでいくと、参道の正面に御神燈となる石灯篭が一基据えられています。最初対ではなく単基の灯篭だったので秋葉山常夜燈かな?って思ったのですが、御神燈の様です。参道から社殿を直接見る事ができないように据えたのでしょうか・・・・。尾張地方でよく見られる「蕃塀」みないな役割なのかな?

境内入口

 二の鳥居となる扁額が掲げられた明神鳥居と一対の石灯籠、社号標、由緒書きが据えられた赤日子神社境内入口になります。入口は三段構成となっていて、下段に灯篭、中段に鳥居、社号標、由緒書き、上段が石瑞垣に囲まれた境内となっています。

手水舎・水盤

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。支え柱の無い手水舎としてはかなり大型になるかと思います。

狛犬

 生年月不明の狛犬一対になります。全体の装飾から大正後期から昭和二十年までの生まれだと思うのですが、どうでしょうか・・。

社殿

 入母屋造瓦葺妻入りの高覧のある濡れ縁が設けられた拝殿を有する社殿になります。

 この拝殿に掲げられている「敬神」と書かれた扁額は海軍元帥東郷平八郎が書いた額になります。やはり、海の神が祀られている神社ですので、海軍元帥が寄進されたのかな。

境内社

 境内社の稲荷社と、ぱっと見、御堂に見える宝形造の屋根の建物になります。この建物については、詳細不祥になります。

 拝殿の向かって左手には「三河養蚕祖神」という石柱が据えられた養蚕祖神の岩の神籬が鎮座しています。

東三河の養蚕

東三河の養蚕で取られた糸を「赤引糸」と呼び、伊勢神宮の神衣の原料として伊勢神宮に奉納されていました。

天長十年(833年)に編纂された律令の”令”部分の解説書である「令義解りょうのぎげ」において伊勢神宮で行われる「孟夏・神衣祭」の項目にて「此れ神服部かんはとり等,斎戒潔清にして,参河の赤引神調あかひきのかんつぎの糸を以て,神衣を織り作り,又麻績連おみのむらじ等,麻を績みて敷和衣うつはたのみそを織りて,神明に供す,故に神衣と曰ふ」と書かれています。

 一説では、赤日子神社周辺で赤引糸を作る養蚕が行われたと言われ、赤引(あかひき)→赤日子(あかひこ)と変遷したとも言われています。その他、同じ宝飯郡で、現在の豊川市千両町に鎮座する「犬頭神社」周辺も赤引糸の生産地だったという由緒が残っているそうです。

境内社相殿趾

 以前参拝した時には、切妻屋根の金刀比羅社、八幡社、高松社、山御堂神社、社口神社の相殿が鎮座していたのですが、今回参拝した時には、相殿が建っていた場所は更地になっていて、なにやら意味ありげな岩が注連縄で囲まれていました。聖山の遥拝所になるのかしら?

地図で鎮座地を確認

神社名赤日子神社
鎮座地愛知県蒲郡市神ノ郷町森五十八番地
最寄駅蒲郡市コミュニティーバスみかんの丘くるりんバス「赤日子神社バス停」徒歩4分

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