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敦賀に行ってみた

 2021年7月21日、日帰りで敦賀まで行ってきました。旅行というより、当サイトで取り上げている仲哀天皇・神功皇后の伝承地のひとつである敦賀を取材しにいったって感じです。

 2021年6月から古事記・日本書記の仲哀天皇・神功皇后の段を紹介しているのですが、その中で、仲哀天皇が行幸の中で一番最初に笥飯宮けひのみやと呼ばれる行宮を造営したと記載されています。その後、仲哀天皇は神功皇后を笥飯宮けひのみやに滞在させたまま紀伊国方面に向かいます。紀伊国において熊襲の反逆を知った仲哀天皇は征伐の為に長門国に造営した豊浦宮に神功皇后を呼び寄せており皇后は敦賀から船にのり日本海側を海路で長門国に向かっていきます。
 さらにその後、神功皇后が皇子を出産し、その皇子が禊の為に敦賀を訪れています。そこで気比の大神との名交換がおこなれています。この大神が気比神宮の御祭神であるとしています。

旅行記

 コロナ禍により開催が1年延期になった東京オリンピックの影響で本来第三月曜日に設定されている「海の日」が7月22日に、10月第二月曜日に設定されている「スポーツの日」が7月23日に移動して7月22日(木)から7月25日(日)まで4連休となっているので、これより先に出かけたいなと思っていたので、ギリギリでしたが7月21日(水)に決行しました。まあ、遅くなればなるほど再びコロナが蔓延して緊急事態宣言がでて「全く出かけられない日々Again」になる事は目に見えていたので、まだまだ感染が治まっている今の時期しかなかったというのもあります。

 自宅のある愛知県岡崎市から福井県敦賀市まではGooglemapでの距離測定では169kmと出ています。これは高速などを使用しない下道オンリーで向かった場合の走行距離になります。所要時間は出発時間によって振れ幅があるのですが、3時間から4時間程のようです。一方高速を使うと、距離は変わらないのですが所要時間が2時間15分程度と凡そ半分の時間で到着できるようです。ただ、高速料金が4,420円(普通車)が必要となります。
 とりあえず、行きは元気なのもあるので下道で行って、帰りは疲労度によって高速を使うか下道で帰るかを考えようとして、敦賀の気比神社の授与所が開く9時ごろに到着するように岡崎をAM4:00に出発しました。・・・名古屋周辺の通勤ラッシュを避けるという思惑もあってまだ夜明け前に出発したのですが、途中で給油しながらAM5:00頃名古屋市の港区周辺を走行していると自分が想像していた以上に車が走行していて、名古屋の周辺の朝は早いなと感じていました。木曽川、長良川を渡河して揖斐川沿いを北上している辺りで徐々に明るくなってきて、7時には滋賀県長浜市に到着していました。ナビを見ると大体30分ほどで敦賀に到着できるみたいで、3時間30分ほどの所用時間になるので、ほぼナビの予想時間通りで到着できそうです。

 しかし、国道23号線から長嶋あたりで木曽川、長良川、揖斐川の堤防道路に入ってから敦賀までの道路事情は非常に走り易く、それでいて色々な観光スポットの近くを走っていて、自分の想像以上にお勧めのルートでした。

気比神宮

 気比神宮といえば、旧国宝(現:重要文化財)である朱塗りの両部鳥居ではないでしょうか。日本三大鳥居のひとつに名を連ねている鳥居になります。他のふたつは、厳島神社と春日神社の鳥居になります。

 これだけの大きな鳥居の両柱は一本のムロの木から削りだされた物だそうで、この柱を削り出せるほどの巨木は今の日本ではおいそれとは見つからない・・あっても天然記念物とかに指定されていて切り出せないかもしれませんね。

 こちらが気比神宮の社殿になります。白塗りの壁に朱色の柱が非常に目を引く社殿です。

気比神宮の御祭神は

  • 伊奢沙別命いざさわけのみこと
  • 仲哀天皇ちゅうあいてんのう
  • 神功皇后じんぐうこうごう
  • 応神天皇おうじんてのう
  • 日本武尊やまとたけるのみこと
  • 玉姫命たまひめのみこと
  • 武内宿禰命たけのうちのすくねのみこと

 元々、敦賀は角鹿と書いて「つぬが」と呼んでいた地域なんだそうです。記紀にも仲哀天皇が造営した行宮を角鹿笥飯宮つぬがのけひのみやと記されています。で、気比神宮はこの角鹿笥飯宮つぬがのけひのみやの跡地に建立された神社であると伝承されているのです。さらには、気比神宮の境内社に「角鹿神社」があり、この御祭神である都怒我阿羅斯等命が第十代崇神天王の御代にこの地域の統治を命じられて政所を置いていたと伝承されています。(政所は敦賀市舞崎地区周辺にあったと言われています。)都怒我阿羅斯等命の詠みから「つぬが」と呼ぶようになったとも言われています。

 大鳥居からは一番境内の奥になる場所に角鹿神社は鎮座しています。敦賀の語源ともなっている角鹿神社も是非参拝してください。

金崎城&金崎宮

 明治時代に南朝の皇族や武将を主祭神とする十五社の神社が創建されました。この十五社を総称して「建武中興十五社」と呼びます。金崎宮は南北朝時代に金崎城を居城として北朝方と壮絶な戦いをしていた後醍醐天皇の皇子である恒良親王・尊良親王を御祭神として明治二十三年(1890年)に創建された神社になります。戦前までの旧社格制度では官幣中社に列格していました。

 金崎宮が鎮座する場所は、先に述べましたが「金崎城」があり、南北朝の時は南朝方が守る城として、そして戦国時代には織田信長と敵対していた朝倉氏の支城として歴史の表舞台に登場する城郭です。特に、戦国時代には、織田信長と徳川家康の連合軍が金崎城を攻め立て落城させたとも伝えられています。しかしその直後、信長の義弟「浅井長政」が信長を裏切り朝倉氏に与した事から、挟撃を恐れた信長は殿を羽柴秀吉が務めた撤退戦を遂行し京都まで逃げ延びたという「金崎城の戦い」が非常に有名ですね。この殿軍には豊臣秀吉の他に明智光秀、池田勝正だけではなく、徳川家康も加わっていたとも言われています。

 なんの大河ドラマだったかは失念してしまいましたが、秀吉と家康が共闘して朝倉・浅井軍の追撃を防ぎながら撤退する模様が描かれていたというシーンを見た記憶があります。竹中直人さんが主演だった「豊臣秀吉」だったかなぁ・・・。

常宮神社

 続いて訪れたのは、元々気比神宮の奥宮・摂社であった常宮神社になります。敦賀湾にせり出した「敦賀半島」の東側に鎮座している神社で、神社前の海からは敦賀港が一望できます。
 常宮神社の御祭神を見ると、主祭神は天八百萬比咩命あめのやおよろずひめのみこととなって、その他に、神功皇后、仲哀天皇、日本武命、応神天皇、玉姫命、建内宿禰命の六柱が祀られています。この辺りは、主祭神は異なりますが、他六柱は気比神宮の御祭神と同じであることからも気比神社との繋がりを感じられるところです。

 社伝によると、仲哀天皇が敦賀から紀伊国向かった際、神功皇后は敦賀に留まっており、ここ常宮の地に滞在していたとされ、ここから海路で長門国に向かったという故事からここに常宮神社を修造して六柱を勧請したと伝えられています。ではいつ頃から常宮神社が鎮座しているのかは不明なんだそうです。

常神社

 福井県の観光名所の一つ「三方五湖」の先?に位置する場所に「常神半島」があります。なにやら意味深げな半島名ですが、この常神半島に鎮座しているのが「常神社」になります。この神社名である「常」をツネと訓読みで読むのか、ジョウと音読みで詠むのか・・・。半島名がツネガミ半島なのでツネ神社と読むとは思うのですが。
 ここ常神社の御祭神は神功皇后になります。

 日本書紀に、「仲哀天皇と穴門にて落ち合う為に敦賀から海路でむかう途中、渟田門にて船上で食事を摂っていた所、魚(鯛)が集まってきたので、酒を海にそそぐと、魚は酔っぱらったように海面に浮かんできた。漁師たちはこの魚を「皇后さまが下さった魚だ」とたいそう喜んだ。」という話が載っています。この話の中に出てくる渟田門というのが、敦賀半島から常神半島一帯の海ではないかと言われています。

 伝説に常神半島の近くで神功皇后が地元の漁民達に魚を与えた。(魚その元を与えたというより漁法を教えた言った感じでしょうか)→漁民達は神功皇后の敬い奉った→常神社が建立された

 こんな流れで創建された神社じゃないのかな?と伝説と繋がりから考えられますね。

 常神半島近くの海の透明度は愛知県の海とは雲泥の差・・・というか比べるのがおこがましいくらいの違いがあります。愛知県というか三河湾の海の色は茶色ですからね・・・・青色の海じゃないです。

まとめ

 仲哀天皇・神功皇后に纏わる神社三社と金崎宮を紹介しました。これ以外にも何ヶ所か立ち寄っているのですが、7月21日巡った場所一覧を載せておきます。詳しく、順次公開する紹介記事を是非見てください。

  • 敦賀駅前シンボルロード
  • 気比神宮
  • 金崎城・金崎宮
  • 天満神社
  • 常宮神社
  • 常神社
  • 大悲院三方石観世音
  • 宇波西神社
  • 国吉城址

 大きく分けると9ヶ所巡ってきました。国吉城で予想以上に時間がかかり、午後5時を回ってしまった為、おとなしく帰路につく事にしました。それでも自分的には大満足な一日でした。

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