日本書紀を読む

巻第八 仲哀天皇<足仲彦天皇>|熊襲征伐に向う

熊襲征伐

 前回では、皇位に着いた仲哀天皇は、神功皇后と共に越国敦賀に「笥飯宮」を建てたという所まで見てきました。敦賀に建てた笥飯宮の跡地は現在では「気比神社」の境内地になっていると伝承されており、この気比神社の御祭神に、仲哀天皇、神功皇后の名を見る事ができます。

 仲哀天皇はこの笥飯宮を発ち、南海道を進んでいくところから今回の話は進んでいきます。それでは早速日本書記を読み進めていきましょう。

日本書紀を読む

仲哀天皇海南道に向かう

三月癸丑朔丁卯、天皇巡狩南國、於是、留皇后及百寮而從駕二三卿大夫及官人數百而輕行之、至紀伊國而居于德勒津宮。當是時、熊襲叛之不朝貢、天皇於是、將討熊襲國、則自德勒津發之、浮海而幸穴門。卽日、使遣角鹿、勅皇后曰「便從其津發之、逢於穴門。」

  • 三月癸丑朔丁卯は仲哀天皇二年三月十五日
  • 南国は古代日本の国割「海南道」を指す。現在の和歌山県、四国四県、淡路島周辺
  • 卿大夫とは、律令時代の高級官僚
  • 穴門とは関門海峡まはた山口県の古称

現代語訳

仲哀天皇二年三月十五日、天皇は南国方面に巡幸なされた。皇后ならびに百官を笥飯宮に留めおき、天皇は御伴に二、三の卿大夫と数百人の官人だけを従えて急いで紀伊国の德勒津宮に向かい、そこで滞在された。

この時、熊襲は叛いて朝貢を献上しなかったので、天皇は熊襲を討つべく德勒津から出港して航路にて穴門に向かわれた。

この日、笥飯宮に使いを遣わして、神功皇后に「敦賀の港から出港して穴門で会おう。」と伝えられた。

仲哀天皇・神功皇后豊浦津に着く

夏六月辛巳朔庚寅、天皇泊于豐浦津。且皇后、從角鹿發而行之、到渟田門、食於船上。時、海鯽魚多聚船傍、皇后以酒灑鯽魚、鯽魚卽醉而浮之。時、海人多獲其魚而歡曰「聖王所賞之魚焉。」故其處之魚、至于六月常傾浮如醉、其是之緣也。秋七月辛亥朔乙卯、皇后泊豐浦津。是日、皇后得如意珠於海中。九月、興宮室于穴門而居之、是謂穴門豐浦宮。

  • 夏六月辛巳朔庚寅は仲哀天皇二年六月十日
  • 豐浦津は山口県豊浦
  • 渟田門は福井県の常神半島と敦賀半島の間の海であると言われている。
  • 海鯽魚は鯛の意
  • 秋七月辛亥朔乙卯は仲哀天皇二年七月五日
  • 如意珠とは如意宝珠とも言い、願いをかなえてくれる宝珠であると言われている。
  • 穴門豐浦宮の跡地は山口県豊浦に鎮座する忌宮神社の境内地とする伝承がある。

現代語訳

 仲哀天皇二年六月十日、天皇は穴門の豊浦津に着き、そこで滞在された。その頃、神功皇后は敦賀の港を出港し渟田門にて船上で食事をされていた。この時、船の周りに多くの鯛が集まったので、皇后が酒を注ぐと、鯛が酔って浮き上がってきたので、漁師たちは多くのその鯛を獲る事ができ、「聖王の下さった魚だ。」と大いに喜んだという。

鯛が六月になると酔ったようになって海面にでて口をパクパクするのはこの時の謂れによるものだという。

同年七月五日、神功皇后は豊浦津に到着なされた。この日、皇后は海中より如意珠を拾われた。同年九月、御所を穴門に建てられそこに住まわれた。この御所を穴門豊浦宮という。

岡県主熊鰐氏、仲哀天皇を出迎える

八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦、而獻魚鹽地、因以奏言「自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門、限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甂御甂、此云彌那陪、以逆見海爲鹽地。」既而導海路。自山鹿岬𢌞之入岡浦。

  • 八年春正月己卯朔壬午は仲哀天皇八年一月四日
  • 岡県主は筑紫国(現:福岡県)遠賀郡のある地の領主
  • 周防沙麼之浦は周防国(現:山口県)佐波郡
  • 魚鹽地なしほのところとは天皇の御饌に供するべき魚を漁り、その塩を製る地
  • 向津野大済は豊前国(現:福岡県)宇佐郡
  • 名護屋大済は筑前国(現:福岡県)遠賀郡
  • 沒利嶋は長門国(現:山口県)六連島
  • 阿閉嶋は長門国(現:山口県)藍島

現代語訳

仲哀天皇八年一月四日、天皇は筑紫の国に行幸なされた。筑紫国岡県主おかのあがたぬしの祖である熊鰐氏が天皇がお越しになった事を聞きつけ、立派な榊を九尋船ここのひろふねの舳先に立て、上の枝には白堂鏡を、中の枝には十握剣をかけ、下の枝には八尺瓊をかけ、周防の沙麼の浦までお迎えにあがった。

そして、天皇の御饌となる魚や塩が取れる地を献上し、「穴門から向津野大済むかつののおおわたりまでを東門、名籠屋大済なごやのおおわたりを西門、沒利嶋もとりしま阿閉嶋あへのしま御筥みはこ、柴島を割いて御甂みなへとして逆見海をもって塩所としましょう」と申し上げた。

そして熊鰐氏は、天皇の船を先導して、山鹿岬やまかのさきを回って、岡浦おかのうらに入った。

コラム

魚鹽地はどこだ?

 筑紫国岡縣主の熊鰐氏は仲哀天皇に「魚鹽地」としてどこ辺りを献上したのでしょうか。色々な文献を見てみると、様々な説がある場所もあるのですが、自分が一番しっくりくる説を地図に落とし込んでみると次の地図のようになります。

 地方領主というべき立場の熊鰐氏が献上できる範囲というのは限りがあると思う訳です。向津野大済については、長門国向津具半島周辺という説と、豊前国(現:大分県)宇佐郡周辺であったという説があったりするわけです。しかし、筑前国岡縣主の立場である熊鰐氏が自らの領地から遠く離れた地を献上する事ができたでしょうか?

 さらに言えば、仲哀天皇が穴門豊浦宮滞在中の食事に供される魚や塩を獲る場所な訳ですから、そこまで広大な場所である必要もないと言えます。

 そんなことを考えると、現在の北九州市の沖合周辺が献上された場所(水域)なのではないかと思います。

仲哀天皇 岡津に向かう

到水門、御船不得進。則問熊鰐曰「朕聞、汝熊鰐者有明心以參來、何船不進。」熊鰐奏之曰「御船所以不得進者、非臣罪。是浦口有男女二神、男神曰大倉主、女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。」天皇則禱祈之、以挾杪者倭國菟田人伊賀彥、爲祝令祭、則船得進。皇后別船、自洞海洞、此云久岐入之、潮涸不得進。時熊鰐更還之、自洞奉迎皇后、則見御船不進、惶懼之、忽作魚沼・鳥池、悉聚魚鳥。皇后、看是魚鳥之遊而忿心稍解。及潮滿卽泊于岡津。

  • 倭国兎田人とは大和国宇陀の人という意
  • 爲祝令祭とは、祝(はふり)という祭式を行う役職の物に祭りを催行するように命じるという意

現代語訳

しかし、入江の入口に差し掛かると突然船が進まなくなった。天皇は熊鰐に「そなたは清らかな心でやってきたと聞いているとが、何故船は進まないのか?」と尋ねられた。熊鰐は「船が進まないのは、私の罪のせいではなく、この浦には男女の二神がいらっしゃるのです。男神の名を大倉主おほくらぬし、女神の名を菟夫羅媛つぶらひめともうします。きっと、この神の御心のせいでしょう。」と奏上した。
そこで、天皇は祈祷を捧げる為に、舵取りである倭国の菟田うだの伊賀彥をはふりに任命し祭を催行しました。すると船は進みはじめました。

 そのころ神功皇后は天皇とは別の船に乗っておられ、洞海くきのうみを進んでいたが、潮がひいてしまい動くことができなくなっていた。熊鰐は引き返して洞海の沖合より自ら皇后を迎えに向かうが、(皇后が乗船している)船が動けなくなっている様を見て、恐れ畏まり、すぐに魚沼と鳥池を作り、魚と鳥と集めました。皇后はこの魚や鳥が遊ぶ様子を見ているうちに苛立ちが徐々に治まっていきました。その後、潮が満ちると(船が動き)岡津にて泊まられた。

仲哀天皇橿日宮に入られる 

又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之、因以奏言「臣敢所以獻是物者、天皇、如八尺瓊之勾以曲妙御宇、且如白銅鏡以分明看行山川海原、乃提是十握劒平天下矣。」天皇卽美五十迹手、曰「伊蘇志。」故、時人號五十迹手之本土曰伊蘇國、今謂伊覩者訛也。己亥、到儺縣、因以居橿日宮。

  • 筑紫伊覩縣主は筑紫国(現:福岡県)糸島郡周辺の領主
  • 穴門引嶋とは関門海峡にある彦島をさす
  • 儺縣は筑前国(現:福岡県)那珂郡の古称
  • 橿日宮とは筑前国(現:福岡県)糟屋郡にあった行宮、跡地には香椎宮が鎮座
  • 己亥は仲哀天皇八年一月二十一日

現代語訳

 また筑紫国伊都縣主の先祖である五十迹手いとでは天皇が行幸なされる事を聞き、大きな賢木を根こぎにして、船の舳先に立て、上の枝には八尺瓊、中の枝には白銅鏡、下の枝には十握剣をかかげ、穴門の引島にお迎えに参上した。

 そして、五十迹手はそれらを献上し

「わたくしめが献上するのは、この八尺瓊が美しく曲がっているように、曲妙(たくみに)にご統治なされ、また、この白銅鏡の様にはっきりと山川海原をご覧になり、更に、十握剣で天下を平定されますようにとの思いからです。」

と奏上した。

天皇は五十迹手をお褒めになられ、「伊蘇志いそし。」と仰せられたので、時の人は五十迹手の本国を伊蘇国いそのくにと呼びました。今、伊都いとというのはそれが訛ったものなのです。同月二十一日 儺縣なだのあがたにお着きになり、橿日宮かしのひのみやにお入りになられました。

ざっくりとまとめてみる

 仲哀天皇は、敦賀国の笥飯宮から紀伊国の德勒津宮に移動なされた時、熊襲が叛いて朝貢しなかった為、天皇はこれを討伐する事を決意なされた。そこで、紀伊国から穴門の豊浦津に向かわれた。この時、敦賀国の笥飯宮に使者を向かわせ、「神功皇后に穴門の豊浦津で会おう。」と伝えた。
 神功皇后は敦賀から航路で日本海側を穴門に向かう途中、渟田門付近で船上で食事をしていた時、船の周りに鯛が集まってきたので、皇后は海に酒を流しいれると、鯛は酔っぱらったように浮き上がってきて、漁師はとても喜んだ。六月頃鯛が海面に浮かんでくるのはこの故事が所縁だと言われています。
 その後、皇后も豊浦津にたどり着き、そこに行宮の穴門豊浦宮を建ててそこに居していた。
 それから時が経ち、筑紫国岡縣主の熊鰐が海路を案内人として天皇一行は穴門から筑前国の橿日宮に入られた。

九州南部を支配していたという「熊襲」が朝貢を拒否した事でヤマト朝廷と敵対関係に入ったと考えられ、この熊襲を討伐する為に、天皇自らが九州方面に進出していく場面になります。正直これだけ長い期間大和国から離れて大丈夫なのだろうか?思わなくもないですが、朝廷の官僚機構を丸ごと移しているのかもしれませんが・・・。
 本州と九州を隔てている「関門海峡」(日本書紀では「穴門」)がヤマト朝廷側の重要拠点となっていたと考えられ、穴門に築いた豊浦宮に熊襲征伐の軍勢を集結させていたのだろうと思われます。この熊襲討伐軍を見て、熊鰐氏や五十迹手はヤマト朝廷に従う事を決意、舳先に、勾玉、鏡、剣を掲げて直接天皇に臣従の意を表したのではないかと思っています。

仲哀天皇<足仲彦天皇>|皇后の神懸り

-日本書紀を読む