
足仲彦天皇<仲哀天皇>とは?
足仲彦天皇<仲哀天皇>は日本神話において最大の英雄とも称される「日本武尊」の第二子となります。叔父である成務天皇に皇子が居なかった為、成務天皇四十八年に立太子の儀により皇太子となり成務天皇六十年に成務天皇が崩御すると、第十四代天皇として即位し、仲哀天皇九年に五十二歳で崩御された在位九年の天皇になります。
成務天皇
日本書記では仲哀天皇はどのように描かれているのか、お時間があれば、「古事記を読む」の仲哀天皇の段の解説記事も併せて読んでいたければ幸いです。
巻第八を読む
日本書紀での仲哀天皇の記述は巻第八に記されています。ちなみに、日本書紀では仲哀天皇と神功皇后の伝承については巻が分けられていて、仲哀天皇は巻第八、神功皇后は巻第九となっていますが、古事記では構成が天皇別に纏められていて、神功皇后の伝承は仲哀天皇の段にて合わせて記されているのが異なる点でしょうか。
前帝崩御す
足仲彥天皇、日本武尊第二子也。母皇后曰兩道入姬命、活目入彥五十狹茅天皇之女也。天皇容姿端正、身長十尺。稚足彥天皇卌八年、立爲太子。時年卅一。稚足彥天皇無男、故立爲嗣。六十年、天皇崩、明年秋九月壬辰朔丁酉、葬于倭國狹城盾列陵。盾列、此云多々那美。
- 足仲彥天皇は仲哀天皇の和風諡号
- 兩道入姬命は垂仁天皇の皇女で日本武尊の妃で仲哀天皇の母
- 活目入彥五十狹茅天皇は垂仁天皇の和風諡号
- 稚足彥天皇は成務天皇の和風諡号
- 明年秋九月壬辰朔丁酉は成務天皇六十一年九月六日
仲哀天皇即位す
元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位。秋九月丙戌朔、尊母皇后曰皇太后。冬十一月乙酉朔、詔群臣曰「朕、未逮于弱冠、而父王既崩之。乃神靈化白鳥而上天、仰望之情一日勿息。是以、冀獲白鳥養之於陵域之池、因以覩其鳥、欲慰顧情。」則令諸國、俾貢白鳥。
閏十一月乙卯朔戊午、越國、貢白鳥四隻。於是、送鳥使人、宿菟道河邊。時、蘆髮蒲見別王、視其白鳥而問之曰「何處將去白鳥也。」越人答曰「天皇戀父王而將養狎、故貢之。」則蒲見別王、謂越人曰「雖白鳥而燒之則爲黑鳥。」仍强之奪白鳥而將去。爰越人參赴之請焉、天皇於是、惡蒲見別王无禮於先王、乃遣兵卒而誅矣。蒲見別王則天皇之異母弟也、時人曰「父是天也、兄亦君也。其慢天違君、何得兔誅耶。」是年也、太歲壬申。
- 元年春正月庚寅朔庚子は仲哀天皇元年一月十一日
- 秋九月丙戌朔は仲哀天皇元年九月一日
- 冬十一月乙酉朔は仲哀天皇元年十一月一日
- 弱冠は二十歳に至る事。未逮于弱冠で二十歳に至らないという意になる
- 閏十一月乙卯朔戊午は仲哀天皇元年閏十一月四日
- 越国は、日本古代の国名で現在の福井県、石川県、富山県、新潟県の範囲にあたる
- 菟道河は山城国宇治郡の宇治川の事
- 蘆髪蒲見別王は日本武尊の子
仲哀天皇と神功皇后
二年春正月甲寅朔甲子、立氣長足姬尊爲皇后。先是、娶叔父彥人大兄之女大中姬爲妃、生麛坂皇子・忍熊皇子。次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛、生譽屋別皇子。二月癸未朔戊子、幸角鹿、卽興行宮而居之、是謂笥飯宮。卽月、定淡路屯倉。
- 二年春正月甲寅朔甲子は仲哀天皇二年春一月十一日
- 長足姫尊爲は神功皇后の和風諡号
- 二月癸未朔戊子は仲哀天皇二年二月六日
- 幸は天皇が御所から出かける事。行幸または巡幸の事
- 角鹿は越前国敦賀の古称
- 笥飯宮は敦賀気比神社の境内地がその跡地であると伝えられている
ざっくりとまとめてみる
第十四代仲哀天皇は、日本神話最大の英雄とされる「日本武尊」の第二子である。叔父で第十三代成務天皇には世継ぎに恵まれなかった為、成務天皇四十八年に皇太子となり、同六十年に成務天皇が崩御させると、翌年一月に天皇に即位します。
亡き父が白鳥に化成して天に昇っていた事から、陵の池に白鳥を飼おうとするが、異母弟である蘆髪蒲見別王は越国より献上された白鳥を奪い取ってしまう。天皇は怒り、蘆髪蒲見別王を討取った。
翌年の仲哀天皇二年一月十一日に長足姫尊爲を皇后とし、二月には敦賀に行幸、現地に行宮「笥飯宮」と建ててそこに皇后と住んでいた。また、この時に淡路を直轄地と定めた。
こんな感じでしょうか。次回からは女帝といったイメージが非常につよい神功皇后も仲哀天皇に同行して熊襲征伐の場面に入っていきます。