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知立神社(愛知県知立市西町)延喜式内社

2022年3月15日

神社情報

神社名知立神社
鎮座地愛知県知立市西町神田十二番地
御祭神鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみこと(初代神武天皇の父君)
彦火火出見尊ひこほほでみのみこと(主祭神の父君、山幸彦)
玉依比売命たまよりひめのみこと(主祭神の妻、神武天皇の母君)
神倭磐余彦尊かむやまといわれひこのみこと(初代天皇、神武天皇)
青海首命おうみのおびと碧海地方開拓の祖神)
創 建景行天皇御代
社格等縣社
三河国:二ノ宮
神名帳延喜式神名帳:三河国碧海郡 知立神社
三河国神名帳:碧海郡正一位 池鯉鮒大明神
文化財国指定重要文化財:多宝塔
国登録有形建造物:本殿、幣殿、拝殿、祭文殿及び廻廊、摂社親母神社、茶室
県指定:扁額、能面二面、舞楽面六面
市指定:石橋、獅子頭、木彫蛙、鰐口、蓬莱鏡、木矛、手焙形土器、徳川家康寄進状、長勝院お万の方書状、松平清康寄進状、トネリコ
例大祭五月三日
境内社親母神社(御祭神:豊玉姫命)
土御前社(御祭神:吉備武彦命)
合祀殿(御祭神:天照大御神他)
小山天神社(御祭神:少彦名命)
秋葉社(御祭神:火之夜芸速男神)
URLhttps://chiryu-jinja.com/
御朱印
参拝日:2021年

御由緒

 知立神社は第十二代景行天皇の御代に創建されたと伝えられています。(三河国碧海郡誌では仲哀天皇元年創建とする。)

 東征を命じられた景行天皇の皇子「ヤマトタケル」は尾張国造であった建稲種命の助力を得て東征軍を整備し、尾張国を出立した。東征軍は陸路・海路と分かれて東に向かい、ヤマトタケルは陸路で浜名湖方面に向かったと各地に残る伝承から考えられています。そして、ヤマトタケル率いる陸軍は尾張国から三河国に至り、駐屯した地でこれからの東征への加護を自らの皇祖神に祈願したのでしょう。
 そして、東征から帰還後、ヤマトタケルは皇祖神に加護を祈願した場所に神々を祀る社を建立したという。この社が知立神社となります。

  • 仁寿元年(851年)十月、文徳実録に「従五位上」を授かると記載。
  • 貞観十八年(876年)六月、三代実録に「從四位下」を授かると記載。
  • 延喜元年(905年)、延喜式神名帳に「三河国碧海郡 知立神社」と記載。
  • 正安三年(1301年)、「正一位智鯉鮒大明神」と刻された扁額あり。
  • 時期不詳、三河国神名帳に「碧海郡正一位 池鯉鮒大明神」と記載。

領主からの寄進

  • 文明三年(1471年)三月、緒川城主「水野貞守」、社殿修繕
  • 大永六年(1526年)十一月、緒川城主「水野忠政」、社殿修繕

・天文十六年(1547年)兵火により焼失

  • 時期不明、水野信光により社殿建立
     ※刈谷・緒川城主「水野信元」の誤記か?
  • 元和二年(1616年)、水野正清、社殿修繕
     ※水野正清は刈谷城主「水野忠清」の誤記か?
  • 寛永年間(1624-44年)、刈谷藩主「松平主殿頭忠房」社領十石を寄進

 天文十六年(1547年)に戸田宣光による兵火により焼失と伝えられています。この天文十六年と戸田宣光と言えば、「当時岡崎城主であった松平広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)が駿府の今川義元の元に人質として送られてる時、突如竹千代の同行の任についていた戸田宣光が裏切り、竹千代を尾張織田信秀の元に届けてしまった。」という事件が思い浮かべます。この戸田宣光の裏切りに今川義元は激怒し、戸田宣光の本城であった田原城を攻め立て、戸田氏を滅ぼしてしまいます。
 さて、東三河で渥美半島にある田原を本拠地としていた「戸田宣光」は何時、知立周辺を攻め立てたのでしょうか。当時、織田信秀の勢力の東端は安祥城を超え岡崎城の南「上和田」の辺りまで伸びていたと考えられています。こんな状況の中、仮に松平氏、今川氏と共に戸田宣光も織田領に攻め込んだとして、安祥城よりはるか西にあたる知立まで軍勢を進める事ができたのか?と考えると難しいんじゃないのかなぁっていうのが正直な所です。
 そうなると、知立神社はどういった理由で消失したのでしょうか。

東海道三大社とは?

 江戸時代に主要五街道の一つ「東海道」沿いに鎮座する三神社の総称として使われたとされる。

  • 三島大社
  • 知立神社
  • 熱田神宮

「東海道三大社」を表立ってうたっているのは知立神社だけで他の三島大社・熱田神宮にいたっては由緒など調べても東海道三大社の文言が出てこないところから、現代においては知立神社の由緒を示す一つの枕詞的な要素が強くなってきていると思われます。

知立神社社家「永見氏」

 三河国造であった「知波夜命」の十五世孫になる「永見貞達」が天武天皇の命により知立神社の神主となったと伝えられ、以後明治維新まで知立神社の社家として知立神社の祭祀を取り仕切った。

 二十九代当主「永見貞英」は緒川城主「水野忠政」の娘を室に向え、後に徳川家康の側室となる「於万の方」が生まれた。於万の方は、家康の次男「結城秀康」を産んだ。秀康は双子であったと伝えられ、もう一人は三十代当主「永見貞親」の養子として引きとられ、「永見貞愛」と称したとされる。

 結城秀康は関ケ原の合戦後、越前一国(六十七万石)を与えられ、「越前松平家」を興しています。越前松平家は明治維新まで越前藩(福井藩)主として(石高の増減はありましたが。)越前国を治めていきます。

 永見氏の次男や三男など家督を継ぐことができなかった男子の多くは越前松平家の家臣として越前国に移住しており、現在でも福井県には永見姓の方が多いと言います。

御祭神

 知立神社の御祭神は

  • 鸕鷀草葺不合尊(初代神武天皇の父君)
  • 彦火火出見尊(主祭神の父君、山幸彦)
  • 玉依比売命(主祭神の妻、神武天皇の母君)
  • 神倭磐余彦尊(初代天皇、神武天皇)

であると伝えられています。

鸕鷀草葺不合尊

鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみことは初代神武天皇の父であるとして、「古事記」や「日本書紀」でその名が記されている神になります。
父は「彦火火出見尊(山幸彦)」
母は「豊玉姫」

知立神社の御祭神を巡る系譜


 木花之佐久夜毘売 ━┳━ 日子番能邇邇芸命     綿津見大神
     ┏━━━━━╋━━━━━┓        ┏━━┻━━┓
    火照命  火須勢理命  火遠理命 ━┳━ 豊玉姫    ┃
                      ┃         ┃
                   鸕鷀草葺不合尊 ━┳━ 豊依姫
                            ┃
                          神倭磐余彦尊

社伝に景行天皇の御代、日本武尊が東国平定の折当地に於いて皇祖の神々に国運の発展を祈願、みごと平定の功なりしを以ってその報賽のため四柱の神々を奉斎したのが始めという。「文徳実録」仁寿元年(851年)十月七日の条に「進参河国知立、砥鹿両神階、並加従五位上」とあるが初見で、しばしば神階昇叙に預かり、延喜式では国幣の小社に列し、勅願と伝える正安三年の扁額に「正貮位池鯉鮒大明神」と刻され、国内神名帳には「正一位知立大明神」と記されている。当初の社地は現社地より東へ約一、五粁の高知であったが、天文十六年(1547年)戸田弾正宣光の兵火により焼失、上重原の地に遷座、元亀二年(1571年)再び焼失したので天正元年(1573年)現在地に移し社殿を造営した。江戸時代は東海道三大社の一つに数えられ、参勤交代の途次諸大名は必ず神札を受けられ、明治元年明治天皇御東幸の砌勅使が差遣され奉幣が行われた。古来より「蝮除け、長虫除け」の信仰があり、当社の守札を携帯すれば蝮蛇に咬まれないと伝えられ、御分社、御霊社は県内は固より全国各地に祀られている。明治五年九月縣社に列格。昭和五十一年七月別表神社に加列された。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」

参拝記

 知立神社は国道1号線と国道155号線が交差(155号線が国道1号線をオーバーパス)する「宮腰交差点」近くに鎮座しています。ただ、国道1号線方面から知立神社の駐車場には真っ直ぐ向かう事ができない為、旧東海道である県道51号線方面から向かうのがよろしいかと思います。

境内入口

 国道155号線から知立神社の境内へは車で入る事ができ、鳥居を迂回した先の境内は駐車場となっています。参拝される方が多くみえる為、境内入口周辺は中々車の往来で賑やかな感じとなっていてなんだか落ち着けません。

 境内入口脇には、基壇と瑞垣で囲まれた「延喜式内知立神社」と彫られた社号標が据えられています。

永代常夜燈

 知立神社の境内には江戸時代に寄進された「池鯉鮒大明神」と彫られた永代常夜燈が何基も据えられています。献灯する火袋と呼ばれる部分が一つは石造りの物なんですが、それ以外は竿石の上に木製の火袋を据えるタイプの常夜燈(灯篭)ですね。

多宝塔

 国の重要文化財に指定されている知立神社の多宝塔になります。明治政府による神仏分離令によって神社の境内にあった仏教色の強い建物は基本全て破却されており、当然ここ知立神社の多宝塔も破却対象だったのですが、檜皮葺の屋根を入母屋造瓦葺の屋根に変え、屋根上部の相輪を取り外し、多宝塔に安置されていた藍染明王を神宮寺であった総持寺に移し、「知立文庫」であるとして破却を逃れています。

神仏習合の知立神社

 嘉祥三年(850年)、慈覚大師円仁が全国行脚の中この地を訪れた時、毒蛇に咬まれ重篤となったが知立神社に祈願した所たちまち治癒した事から、大師は神徳に感謝し、知立神社の別当寺となる神宮寺を創建したと伝えられている。知立神社別当は七坊あったとされ「玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊」が創建されています。

 知立神社の境内に仏教色の強い多宝塔が建立されているなど、知立神社は神仏習合の神社であったと考えられ、江戸時代までの知立神社は神道と仏教が綺麗に分けられてしまっているのが当たり前と思っている現在の自分たちでは中々想像できない神社像なのではないでしょうか。

太鼓橋

 社殿の正面には知立市の文化財に指定されている石橋(太鼓橋)が据えられています。

石橋は人工的に作られた池を渡る形で築かれており、現在この池には数多くの鯉が泳いでいたりします。

手水舎

 歴史的に古い建築物が多い知立神社の中で、手水舎はコンクリート造りとなっています。屋根部分は木造となっているハイブリッド構造の四本柱タイプの手水舎です。

狛犬

 頭に角がある古典的な姿の狛犬一対になります。やっぱりこうしたスッキリした姿の狛犬のが好みです。

社殿

 国登録有形建造物となっている社殿になります。
 登録としては「本殿、幣殿、拝殿、祭文殿及び廻廊」となっていて、その建物の名前から知立神社の社殿は尾張造であることがわかります。それぞれ建築時期が異なるのですが、歴史的な景観を示す建造物という事で社殿全体が登録されたようです。

 尾張造の社殿は妻入りの拝殿ー祭文殿ー幣殿ー本殿が一直線に結ばれた構造の社殿となっていて、愛知県と代表する神社の多くがこの様式の社殿となっています。元々熱田神宮の社殿も尾張造だったのですが、明治から大正にかけて神明造の社殿へと造営工事が行われています。

境内社

 国登録有形建造物である「親母神社」は令和三年時点で改修工事中の為足場に覆われていて社殿を直接見ることはできませんでした。改修工事中の親母神社の御神体はその隣に鎮座する合祀殿に遷座されていました。

地図で鎮座地を確認

神社名知立神社
鎮座地愛知県知立市西町神田十二番地
最寄駅名古屋鉄道 名古屋本線「知立駅」徒歩12分

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