神々の伝承

知波夜命(ちはやのみこと)

2021年9月24日

知波夜命とは?

登場文献

  • 先代旧事本紀
    • 巻第十 国造本紀 参河国造の項

「参河国造
 志賀高穴穂朝以物部連祖出雲色大臣命五世孫知波夜命定賜國造」

 第十三代成務天皇の御代に三河国造に任ぜられたのが、後の物部氏の祖とされる出雲色大臣命の五代孫になる「知波夜命ちはやのみこと」になります。知波夜命は当然物部氏の一族である訳ですから、物部一族を引き連れて三河国に向かったと思われます。

 さて、三河国は何時頃ヤマト朝廷の勢力下に入ったのでしょうか?

 実は、今回紹介している「知波夜命」は初代参河国国造になります。先にも述べて言いますが、国造に任ぜられたのは十三代成務天皇の御代になります。「先代旧事本記」によると、成務天皇の御代に東北から九州まで一気に国造が任ぜられたと書かれています。

 蝦夷や隼人を始めとする反ヤマト朝廷の勢力は成務天皇の次代までにすべてが臣従していた訳ではなく、特に蝦夷については平安時代などに征夷大将軍という蝦夷討伐の臨時の将軍職が設けられるなどその平定にかなりの時間を要していた事は知られていて、「先代旧事本記」に書かれている国造が何処まで信用できるのかは正直よく分からない所なんですが・・・。

 三河国から東の国々にヤマト朝廷の勢力が伸びたのは成務天皇の異母兄であり日本神話の最大の英雄とも言われている「日本武尊」の東征によるところが非常に大きい事はよく知られているかと思います。

 日本武尊は父景行天皇から東征を命じられると伊勢国を経由して尾張国に入っています。尾張国で後に尾張国造である建稲種命の協力を得て東征軍を編成して海路と陸路に分かれて東国を目指しています。この辺りから、日本武尊の東征以前のヤマト朝廷の勢力の東端は尾張国までだったのではないかという仮説ができるかと思います。記紀には載っていませんが、現在でも日本武尊の伝説は愛知県三河地方の各地に残っており、その中には武装集団を制圧したという伝承もあったりするので、日本武尊によって三河地方は制圧されたのではないかと考える事ができるかと思います。

 こうして日本武尊によって制圧された地域に、異母弟であり天皇に即位した成務天皇が各地に国造を任命して統治に当らせたとして、その中で、知波夜命は三河国造に任ぜられたということなのでしょう。

 実は、知波夜命が三河国造に任ぜられる前に、十一代景行天皇より三河国の統治を命じられていたのが、岡崎市西本郷町にある「和志取古墳」がその墳墓であると比定されている「五十狭城入彦皇子いさきいりびこのみこ」になります。景行天皇は自らの皇子や皇女を各地に置く(または嫁がせる)事でヤマト朝廷の勢力の拡大を行ったと考えられています。しかし、成務天皇の御代になり、官僚組織の中で全国統治をおこなう為、国造という役職を新設していったのはないでしょうか。

 知波夜命は物部氏に通じる一族の出身であることから、三河国は物部氏の勢力下にあったと考えられています。三河国は尾張国と並んで物部氏の重要な領地であったとされており、蘇我氏とヤマト朝廷内で勢力を二分する事ができたのも、こうした領地があったからだと言われています。知波夜命は亡くなった後も知波夜命を御祭神とする「謁播神社」が建立されるなど、三河物部氏の精神的支柱として絶大な力を持っていたと考える事ができるかと思います。

神々のデータ

神祇人神
神名先代旧事本紀:知波夜命
役職参河国造
先祖出雲色大臣命
不明

知波夜命を祀る神社

  • 謁播神社(式内社・郷社)
    愛知県岡崎市東阿知和町北山39
    • 矢作川の支流である青木川の右岸に鎮座している神社になります。謁播神社の北東側に、知波夜命の墳墓であると伝えられている於新造古墳があります。
  • 川原宮謁播神社(村社)
    愛知県豊田市御蔵町粟下シ2
    • 謁播神社の社家であった安藤氏が御神体と共に戦乱を逃れ移住した先にあった白鳥大明神に謁播神社の御祭神を合祀した神社になります。後に川原宮謁播神社と改称。

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