古事記を読む

仲哀天皇|神功皇后の新羅征伐

2021年7月4日

神功皇后の新羅征伐

 神託を信じなかった事から神罰として「黄泉国に行かされた(崩御した)」仲哀天皇の罪を払う為に行われた「大祓」の後に、再び神功皇后は神懸りとなり、「神功皇后の胎内にいる皇子が次の皇位に着く」事と、改めて新羅征伐の神託を授かります。この神託を受けて、神功皇后は身籠っている皇子の為に行動を起こしていく事になります。

三韓征伐とも言われる神功皇后による「新羅征伐」ですが、神功皇后によるものかどうかはともかくとして、史実としてヤマト朝廷による朝鮮半島への出兵は行われたのは確実のようです。また、相手国でもある新羅国はヤマト朝廷への朝貢国であった史料も見つかっており、新羅侵攻は成功していたのも確実視できるみたいです。

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故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、悉負御船而渡。爾順風大起、御船從浪。故其御船之波瀾、押騰新羅之國、既到半國。於是、其國王畏惶奏言「自今以後、隨天皇命而、爲御馬甘、毎年雙船、不乾船腹、不乾柂檝、共與天地、無退仕奉。」故是、以新羅國者、定御馬甘、百濟國者、定渡屯家。爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大神之荒御魂、爲國守神而祭鎭、還渡也。

  • 國王は新羅国の王
  • 御馬甘とは、馬飼いの意。当時日本には馬がおらず、新羅国は馬の繁殖を担ったと考えられる。
  • 渡屯家とは、海を渡った先の直轄地という意

現代文訳

そこで、神功皇后は、神が示した事すべてを行い、軍を整備、船を並べて大海を渡っている時、大きさの大小にかかわらず、海原の魚がすべて御船を背負って泳ぎだした。

そして追い風が盛んに吹き、御船は波のまま進んでいった。御船を載せた波はそのまま新羅国を押しあがり、国の中ほどに到達するほどであった。

これをみた新羅国の王は恐れ敬って、

「これからは天皇の御命令のままに、馬飼いの国として毎年船を並べて、船腹を乾かさず、さおかじを乾かさず、天地がある限り、常にお仕えしてまいります。」

これにより、神功皇后は新羅国を馬飼い、百済国は半島での直轄地と定められた。

そして、御杖をもって、新羅国の国主の門前に突き立てて、すぐに住吉大神の荒魂を国をお守りになる神として祀り、海を渡り御帰国なされた。

 「新羅国の国王に門前に突き刺した杖を依代として、住吉大神の荒御魂を祀った」と記されています。荒御魂とは何ぞや?と考えると、対義語的には「和御魂にぎみたま」となるわけですが、穏やかな状態の時の神を「和御魂」、荒らしいの状態の時の神を「荒御魂」と表記しています。

 神功皇后に神が憑依した「神懸り」状態の時に、神託を与えたというのが天照大御神と住吉三神である上筒之神、中筒之神、底筒之神でした。そして、新羅国の国守りとして住吉三神(住吉大神)を奉安したのは、この神託に沿ったものだと考えられますが、ここでしっかりと「墨江大神」と書かれている所からも、新羅国との間の交易には住吉大社が深くかかわっている事が示している気がしています。

まとめ

 実際に行われたとされるヤマト朝廷による新羅征伐が神功皇后の親征として行われたのかは冒頭にも述べていますが、わかっていません。古事記ではこの後から記述があるのですが、神功皇后は、新羅国出身の天之日矛の子孫であるとされていて、この事から新羅国の王が自らヤマト朝廷(神功皇后)に従ったと記述されているのではないかと考えられている様です。

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