誓約とアユ釣り
北九州の平定の為、神功皇后は軍を率いて筑後平野方面へ向かいます。荷持田村という所に羽白熊鷲が率いているヤマト朝廷への臣従を拒否した勢力がありました。朝廷軍は羽白熊鷲を討取ると、さらに南下し有明海方面に進軍し、山門縣の田油津媛をも打ち取り、筑後平野を平定しています。
しっかりとした範囲は分からないものの、筑後平野以南の熊本、宮崎、鹿児島周辺は元々熊襲の勢力下であったとされ、既にヤマト朝廷に臣従している事から、神功皇后は山門縣から軍を反転させて北に進んでいきます。
日本書記を読む
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣、而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰、希見物也。【希見、此云梅豆邏志。】故時人號其處、曰梅豆羅國。今謂松浦訛焉。是以、其國女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕年魚、於今不絶。唯男夫雖釣、以不能獲魚。
- 夏四月壬寅朔甲辰は仲哀天皇九年四月三日
- 火前国は肥前国(現:佐賀県)
- 勾針爲鉤は針を曲げて釣り針とする(鉤=釣り針)
- 取粒爲餌は米粒を取って餌とする
- 抽取裳縷爲緡は衣装の糸を抜き取って釣り糸とする。(緡=釣り糸)
現代語訳
仲哀天皇九年、夏の四月三日、神功皇后率いる軍勢は山門縣から北転し、肥前国の松浦縣に至り、玉嶋里の小川の辺で食事をしていた。
皇后は、針を曲げて釣り針に、御飯粒を餌に、そして御召し物の糸を抜き取って釣り糸として、川の中の石の上に立ち釣り糸を垂らすと、「我は西に宝の国を求めたいと願っております。もしこの願いが叶うのならば、川の魚に釣り針を飲み込ませ給え。」と誓約をされた。
そして、皇后が竿を挙げると、細鱗魚釣れた。皇后は「珍しい事もあるものだ。」と仰せになった。この故事からその地を「めずらの国」と名付けた、松島という名はこの「めずら」が訛ったものである。
これ以降、この国の女子は毎年四月上旬になると、川に釣り糸を垂らし、年魚を釣る様になったといい、この伝統は現在に至るまで行われている。しかし、男子が釣ろうとしても魚は釣る事ができません。
まとめ
今回紹介している「年魚釣り」の内容については、古事記でもほぼ同様の内容で記載されていたりします。
神功皇后が河の中の岩の上に立ち年魚(アユ)を釣ったする時期については、記紀で時期が大きく異なっています。
- 古事記 :新羅征伐後、御子を出産してから筑紫国の末羅縣の玉嶋の里にてアユ釣りを行った。
- 日本書紀:新羅征伐前、筑後平野を平定後、肥前国の松浦縣玉嶋里にて新羅征伐の誓約にてアユを釣り上げた。
このあたりは、アユ釣りの伝承は残っていたが、この伝承と神功皇后を結び付ける際、それぞれ編纂した人によって時期が前後したのではないかと思われます。
巻第九 神功皇后|迹驚岡の裂田溝