羽白熊鷲を討伐
神託の神の名を聞いた神功皇后は、その神々に献饌し祀ると、臣下の鴨別死を将軍とする熊襲征伐軍を派兵します。熊襲は数日内に降伏し、神功皇后に恭順しています。
熊襲の征伐を完了した神功皇后は、さらに九州の拠点である「橿日宮」周辺の制圧を進めていく事にしたようです。
日本書紀を読む
且荷持田村【荷持、此云能登利。】有羽白熊鷲者。其爲人强健。亦身有翼、能飛以高翔。是以、不從皇命。毎略盜人民。戊子、皇后欲擊熊鷲、而自橿日宮遷于松峽宮。時飄風忽起、御笠墮風。故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰、取得熊鷲。我心則安。故號其處曰安也。丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。
- 荷持田村は現在の福岡県朝倉市秋月周辺だと言われている。
- 不從皇命とは皇命に従わないとなり、朝廷の意に従わないと言い換える事が可能かと思います
- 戊子は仲哀天皇九年三月十七日
- 松峽宮は福岡県朝倉郡筑前町栗田に鎮座する松峡八幡宮が伝承地であるという。
- 御笠は大野城市山田周辺とされ、現在「御笠の森」が日本遺産として登録されている。
- 辛卯は仲哀天皇九年三月二十日
- 層増岐野は現在の福岡県朝倉郡筑前町(旧夜須町)あたりであるという。
- 丙申は仲哀天皇九年三月二十五日
- 山門縣は現在の福岡県柳川市またはみやま市周辺(旧山門郡)あたりであるという。
現代語訳
荷持田村にいう場所に羽白熊鷲という者がいた。その者の成りは強健で、身体には翼があり、天高く飛び空を翔けたという。皇命には従わず、常に民からの略奪を重ねていた。
仲哀天皇九年三月十七日、神功皇后は熊鷲を討伐する為に、橿日宮から松峽宮に移られた。この時、つむじ風がおこり、神功皇后がかぶられていた御笠が吹き飛ばされた為、その地を人々は御笠と呼ぶようになった。
仲哀天皇三月二十日、神功皇后率いる軍勢は層増岐野に布陣するとすぐさま羽白熊鷲率いる軍勢に攻めかかりこれを殲滅させた。この結果を見届けた神功皇后は側近に「熊鷲を討ち取り、私の心は安らかになった。」と言われたという。この事から、周辺を「安」と称するようになった。
仲哀天皇三月二十五日、神功皇后は山門縣に向かい、土蜘蛛の田油津媛を誅殺した。田油津媛の兄、夏羽が、軍を率いてきますが、妹である田油津媛が誅殺されたことを知り撤退していきました。
まとめ

今回記されている神功皇后の行幸を地図に落とし込んでみました。ヤマト朝廷側の本拠地がある「橿日宮」から熊襲の本拠地だったされる南九州の間との間に勢力を持っていた反ヤマト朝廷の勢力を順次駆逐している事が見て取れます。
神功皇后としては、近日中に決行する新羅征伐に向けて、橿日宮周辺の治安安定と共に、新羅征伐軍の動員力を上げる為に各独立勢力の臣従させる為の行軍なのでしょう。
コラム
神功皇后の軍勢に討ち取られたとされる「羽白熊鷲」が埋葬されたと伝えられている古墳が福岡県朝倉市にある「あまぎ水の文化村」の一角に保存されています。どうやら元々は少し離れた場所にあったそうなのですが、寺内ダムの建設に伴い現在の場所に移設されたんだとか。


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神功皇后|年魚を釣る