古事記を読む

序文|太安万侶奏上文

古事記とは?

 和銅五年(712年)に太安万侶が編纂し、時の天皇「元明天皇」に献上された日本最古の歴史書になります。8年後の養老四年(720年)に編纂された「日本書記」とは同じ歴史書という事で何かと比較される書でもあります。
 一説には、古事記は国内向けに造られた歴史書で、目的は皇室を中心としたヤマト朝廷の正統性を主張する為に造られたとも言われています。これに対し、日本書紀は「正史」に位置付される書であり、国外(主として当時の中国「唐」)に向けて発信する為に造られたと言われ、全文が漢文で書かれています。
 天皇系の正統性を物語調で述べる古事記に対し、日本書紀は年代を追って書く編年体で書かれているのも主な違いになります。

 同時期に編纂されたこともあり、物語の冒頭から巻末までの範囲はほぼ同じなわけで、古事記と日本書紀を読み比べていくと飛鳥時代から奈良時代にかけての日本のあり様が見えてくるのではないでしょうか。

序文

 日本書紀とは異なり、古事記には元明天皇に献上した時に編纂者である太安万侶が古事記の目的などを記した「序文」が記されています。また、この序文により、古事記は和銅五年(712年)に完成した書であるとされています。

古事記|原文

臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。陰陽斯開。二靈爲群品之祖。所以出入幽顯。日月彰於洗目。浮沈海水。神祇呈於滌身。故太素杳冥。因本教而識孕土產嶋之時。元始綿邈。賴先聖而察生神立人之世。寔知。懸鏡吐珠。而百王相續。喫劔切蛇。以萬神蕃息歟。議安河而平天下。論小濱而清國土。是以番仁岐命。初降于高千嶺。神倭天皇。經歷于秋津嶋。化熊出爪。天劔獲於高倉。生尾遮徑。大烏導於吉野。列儛攘賊。聞歌伏仇。即覺夢而敬神祇。所以稱賢后。望烟而撫黎元。於今傳聖帝。定境開邦。制于近淡海。正姓撰氏。勒于遠飛鳥。雖步驟各異。文質不同。莫不稽古以繩風猷於既頽。照今以補典教於欲絶。
曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。濳龍體元。洊雷應期。聞夢歌而想纂業。投夜水而知承基。然天時未臻。蟬蛻於南山。人事共洽。虎步於東國。皇輿忽駕。凌渡山川。六師雷震。三軍電逝。杖矛擧威。猛士烟起。絳旗耀兵。凶徒瓦解。未移浹辰。氣沴自清。乃。放牛息馬。愷悌歸於華夏。卷旌戢戈。儛詠停於都邑。歳次大梁。月踵俠鍾。清原大宮。昇即天位。道軼軒后。德跨周王。握乾符而摠六合。得天統而包八荒。乘二氣之正。齊五行之序。設神理以奬俗。敷英風以弘國。重加。智海浩瀚。潭探上古。心鏡煒煌。明覩先代。
於是天皇詔之。朕聞諸家之所齎。帝紀及本辭。既違正實。多加虛僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家之經緯。王化之鴻基焉。故惟撰錄帝紀。討覈舊辭。削僞定實。欲流後葉。時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。即勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。
伏惟皇帝陛下。得一光宅。通三亭育。御紫宸而德被馬蹄之所極。坐玄扈而化照船頭之所逮。日浮重暉。雲散非烟。連柯并穗之瑞。史不絶書。列烽重譯之貢。府無空月。可謂名高文命。德冠天乙矣。
於焉惜舊辭之誤忤。正先紀之謬錯。以和銅四年九月十八日。詔臣安萬侶。撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭。以獻上者。謹隨詔旨。子細採摭。然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難。已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今。或一句之中。交用音訓。或一事之内。全以訓錄。即。辭理叵見以注明。意况易解更非注。亦於姓日下謂玖沙訶。於名帶字謂多羅斯。如此之類。隨本不改。大抵所記者。自天地開闢始。以訖于小治田御世。故。天御中主神以下。日子波限建鵜草葺不合尊以前。爲上卷。神倭伊波禮毘古天皇以下。品陀御世以前。爲中卷。大雀皇帝以下。小治田大宮以前。爲下卷。并錄三卷。謹以獻上。臣安萬侶。誠惶誠恐。頓首頓首。
和銅五年正月廿八日。正五位上勳五等太朝臣安萬侶謹上。

 序文としながらも、かなりのボリュームがあります。一見漢文で書かれている様に見えますが、古事記全体は「変体漢文(日本語を漢文に倣って感じだけでつづった文)」で書かれてるそうです。という事は、この文章を中国にもっていっても読めないという事ですね。こういった所からも国内向けに編纂された書であることが見えてきます。

古事記|現代文訳

 日本語を漢字だけで書いた変体漢文という事なので、普通に読めるかしら?と思ったのですがこれがなかなか強敵です。古事記の解説書などを引用しながら現代文に訳していこうと思います。


序 第一段「稽古照今」

臣安万侶が謹んで申し上げます。

そもそも、宇宙の初めに、混沌とした根元がすでに凝り固まって、まだ生成力も形も現われなかった頃のことは、名付けようもなく、動きもなく、誰もその形状を知るものはありませんでした。

しかしながら、天と地とが初めて分かれると、(天之御中主神あめのみなかぬしのかみ高御産巣日神たかみむすひのかみ神産巣日神かむむすひのかみの)三神が、造化の最初となり、また陰陽(男女の両性)の二つの気に分かれると、(伊邪那岐、伊邪那美の)二神が万物を生み出す祖神となりました。

伊邪那岐は、黄泉国を訪れて現世に帰り、禊をして目を洗うときに日と月の神が現われ、海水に浮き沈みして身を洗うと、多くの神々が出現したのです。
天地万物の発生する以前のことは不明な点が多いのですが、神代からの古伝承によって、神が国土を生み、島々を生んだ際のことを知ることができます。
天地の分かれる前の元始の頃のことは、遥かに遠い太古のことでですが、古代の賢人のおかげで、神々を生み人間を生み出したころのことを知ることができるのです。

「天の石屋戸」では、賢木の枝に鏡をけ、
「天の真名井の誓約」で、須佐之男命が玉を嚙んで吐き、代々の天皇が皇統を継ぎ、天照大御神が剣を嚙み、
須佐之男命が大蛇を退治して後、多くの神々が繁栄したということを。
その後、天安河の河原で神々が相談し、建御雷神たけみかづちのかみが伊那佐の小浜に降って、大国主神と交渉して葦原中国あしはらのなかつくにを平定することができました。
かくして番仁岐命ほのににぎのみことが、初めて高千穂峯に天降り、神武天皇は大和に入り、永く過ごされることになりました。

ある時は、川から現われた荒らぶる熊の神に悩まされ、天つ神の降した霊剣を高倉下が奉り、ある時は、尻尾のある人に道で遇いながら、八咫烏の導きで吉野に入られました。
忍坂おさかでは歌舞を合図に八十建を討ち、賊を従わしたとされます。

崇神天皇は夢に神の諭しを受けて、天神地祇を崇敬されたので、賢君と称えています。
仁徳天皇は民家の煙を見て民を慈しまれたので、現在では聖帝と伝えられています。
成務天皇は近江の高穴穂宮で、国郡の境を定め地方を開発されました。
允恭天皇は飛鳥宮で、氏や姓を正しく制定されました。

このように、歴代天皇の政治は、それぞれ異なり、派手なものと地味なものとの違いはありますが、古代の様子を明らかにすることによって、風教道徳が衰えていることを正し、現今の姿を顧みて、人道道徳の絶えようとする際の参考にならぬはずはありません。

序 第二段「天武天皇と帝紀・旧辞の撰録」

飛鳥の浄御原宮で大八島国(日本)を御統治された天武天皇の御代になって、大海人皇子は皇太子ながら、既に天皇としての徳を具え、即位の時機が到来してその徳を発揮されることになりました。

夢の中で聞かれた童謡を、皇位を継ぐ意味と判断し、夜半に横河で黒雲の広がるのを見て、やがて皇位を継承されることを予知されたのです。
しかしながら、天運がまだ到来するに至らずして、皇子は皇太子の地位を去って、出家のため吉野山に籠もり、兵も集まったので、東国に勇ましく進出されることになりました。

皇子はにわかに輿を進めて、山を越え川を渡り、その軍勢は雷電のような凄まじい勢いで進撃しました。
矛が威力を示し、勇士が煙のように四方から起こり、赤い旗が兵器を輝かして、近江の軍勢は、瓦が崩れるように敗れ去ったのです。

こうしてまだ十二日も経たないうちに、邪気は自ずから清められました。
そこで戦に用いた牛や馬を放って休息させ、皇子は心安らかに大和に帰り、旗を巻き矛を収めて、戦勝を喜んで歌い踊り、飛鳥の都に凱旋されたのです。

かくして酉の年の二月、大海人皇子は、浄御原宮で御即位されました。
その御政治は、古代中国の黄帝に勝り、御聖徳は周の文王にも勝っておられました。
三種の神器を承け継いで天下を統治し、皇統を承けて天の下を隈なく統合なさいました。
善き政治が行なわれたので、陰陽の二気が正しく作用し、また、木火土金水の五行が順序正しく循環しました。

天皇は神祇を崇敬して良俗を奨励し、優れた徳政を行なって、その及ぶ範囲を国内に広められたのです。
それのみならず、天皇の御知識は海のように広く、上古の事を深く探究され、御心は鏡のように明るく、先代の事をはっきり見極めておられました。

そこで天皇は、
「私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものが甚多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうに違いない。そもそも、帝紀と本辞は、国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本となるものである。それ故、正しい帝紀を選んで記し、旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う」
と仰せられました。

その頃、氏は稗田、名は阿礼。
年は二十八歳になる舎人がお側に仕えていました。
この人は生まれつき聡明で、一目見ただけでロに出して音読することができ、一度耳に聞いたことは記憶して忘れません。

そこで天皇は親しく阿礼に仰せられて、帝皇の日嗣と先代の旧辞とを繰り返し誦み習わせられました。
しかしながら、天皇が崩御され、時世が移り変わりましたので、その御計画を実行されるに至らなかったのです。

序 第三段「元明天皇と古事記の完成」

謹んで思いますに、天皇陛下(元明帝)は帝位におつきになって、その聖徳は天下に満ち渡り、万民万物を化育しています。
皇居におられても、その御徳は、遠く馬の蹄の止まる地の果てまで、また船の舳先の止まる海原の果てまでも及んでおられます。
太陽が空にあって光を重ねる瑞祥。
雲でもない煙でもない、めでたい瑞祥。
連理の枝や一本の茎に多くの穂の出る瑞祥など、書記官は絶えず記録し、一方で、次々に狼煙をあげて知らせるような遠い国から、幾度も通訳を重ねるような遠い国からもたらされる貢物は、いつも宮廷の倉に満ちて、空になる月はない状態です。
このような聖徳の高い天皇のお名前は、夏の禹王や、殷の湯石にも勝っていると申すべきでしょう。

さて、天皇陛下は、旧辞に誤りや間違いのあるのを惜しまれ、帝紀が誤り乱れていることを正そうとして、和銅四年九月十八日に、臣安万侶に詔を下して、稗田阿礼が天武天皇の勅命によって誦み習った旧辞を書き記し、書物として献上せよと仰せられたので、謹んで仰せに従って、事細やかに採録致しました。

しかしながら、上古においては、言葉もその内容もともに素朴で、文章に書き表わすとなると、漢字の用い方に困難がありました。
全て漢字の訓を用いて記した場合には、漢字の意味と言葉の意味とがー致しないことがあります。
全て漢字の音を用いて記したものは、記述が大変長くなります。
そんなわけで現在は、ある場合には一句の中に音と訓とを混用し、ある場合には一事を記すために、全て訓を用いて記すこととしました。
そして、言葉の意味の分かりにくいものには、注を加えて分かりやすくし、意味の分かりやすいものには、ことさら注は加えませんでした。
また、氏の名の「日下」をクサ力と読み、名の「帯」の字をタラシと読む、といったような類は、もとのままに記し、改めておりません。

ここで書き記した範囲は、天地開闢から推古天皇の御代までです。
そして、天之御中主神から鵜草葺不合命までを「上巻」、
神倭伊波礼毘古天皇から応神天皇の御代までを「中巻」、
仁徳天皇から推古天皇までを「下巻」とし、
これらを合わせて三巻に記して、謹んで献上致します。

臣安万侶、謹んで申し上げます。

和銅五年正月二十八日  正五位上勲五等太朝臣安万侶


 現代文で訳すと非常に長い文章になってしまいました。かいつまんで説明すれば、序盤は古事記の抜粋となりこれを第一段、中盤は古事記を編纂した理由となりこれを第二段、終盤は古事記の献上と編纂内容の説明となりこれを第三段としています。

まとめ

 序文は太安万侶が元明天皇に献上する際に、天皇の前で奏上した文をそのまま附したものなのでしょう。序文を調べていくとなにやら偽書説があるみたいです。古事記の原書が存在せず写本のみが伝えられている状態では、その本文自体の真贋も疑いだしたらきりがない訳で、難しい問題な気がします。

ちなみに、日本最古の古事記の写本は、通称「真福寺本」と呼ばれ、上巻と中巻が応安四年(1371年)、下巻が応安五年年(1372年)に書写されたものになります。1371年ですから室町時代初期に書写された物になります。

 この日本最古の古事記三巻の写本を有するのは、愛知県名古屋市中区にある通称「大須観音」で知られている「北野山真福寺寶生院」になります。大須観音では「大須文庫」と呼ばれる国宝四点、重要文化財三十七点を始めとする一万五千点あまりの蔵書を所蔵しています。(太平洋戦争での空襲でも生き延びた書籍達になりますね。)実はあまりにも蔵書が多くて今尚その蔵書の調査・確認が行われているので、これからアッと驚く発見が報じられる日が来るかもしれませんね。

名古屋有数の繁華街「大須」に建つ「北野山真福寺寶生院」は、元弘三年(1333年)に現在の岐阜県羽島市に建立された真言宗の寺院になります。慶長十七年に徳川家康の命により現在の地に移転しています。
名古屋二十一大師、尾張観音霊場、東海不動尊霊場、なごや七福神の札所にも選定されており、平日でも数多い参拝者が訪れる寺院になっています。

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