古事記を読む

伊邪那岐命・伊邪那美命|国造りの命を受ける

2021年6月14日

国造りの命とは?

神世七代の第七代として国(地)に出現した伊邪那美の神・伊邪那美の神に対して、別天津神より「国造り」の詔を受けて、まだまだ漂っている国を固めてていく事になります。

神世七代の神に対して詔を発する事ができる所を見ると、やはり「別天津神」は天津神の中で別格の存在であることがここを読んでもわかってきます。そんな神々の上下関係を感じ取れる古事記を読んでいきましょう。

古事記を読む

於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立(訓立云多多志)天浮橋而。指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂邇(此七字以音)畫鳴(訓鳴云那志)而。引上時。自其矛末垂落之鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋。(自淤以下四字以音)

引用元:古事記上つ巻

於是」は「ここにおいて」と訳す漢文の接続語になります。この接続語によって、これまで別天津神、神世七代が順次出現してきた神々の紹介から新たな場面に転換する事がわかります。「天布矛」ですが、古事記ではその形状には言及されていませんが、日本書紀には、「天之瓊矛」と書かれている事から「玉飾りのある矛」という矛になると思います。

歴史的仮名づかい訳

ここに、天つ神のもろもろの命もちて、伊邪那岐の命・伊邪那美の命の二柱の神に、
「このただよへる国を修理め固め成せ」
と詔らし、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下して画かせば、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまふ時にその矛の末より垂り落つる塩の累り積れる、嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋ぞ。

さらに現代語に訳すと

さて、別天津神の五柱の神々は、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神に対し、「この未だまだ漂っている地を整え固めよ。」という詔を発し、天布矛を授けた。伊邪那岐・伊邪那美の神は天の浮橋の上に立ち、授かった天布矛の矛先を地に刺しかき混ぜてみると、塩水はころころと音を立てた。矛先を地より引き上げた時、その矛先から滴り落ちた塩が積み重なり島となった。これが「淤能碁呂嶋」である。

ちなみに、淤能碁呂嶋おのごろしまとは、「おのずから凝り固まった島」という意味になるになり、これから始まる伊邪那岐・伊邪那美による国造りの拠点となっていきます。実在する島を淤能碁呂嶋として描いたのか、それとも全くの空想の島なのかは今現在でも学者の中で意見が分かれているようです。

ココがポイント

淤能碁呂嶋(オノゴロ島またはオノコロ島と評している所が大半です。)の伝承地はどこなか。

実は、このオノゴロ島についての記述が古事記下つ巻の仁徳天皇の段にて詠われている和歌の中に登場してきます。

淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由

この歌は淡路島を見たいとして難波にて詠ったとされ、「御所から出て、難波の岬に立ってみると、淡島、淤能碁呂島、檳榔島も見える。離れ島も見える」という内容になります。
この内容に則して考察すれば、オノゴロ島は淡路島の近くにあったと考えられる訳です。実際、オノゴロ島の伝承地であるとしている場所は淡路島周辺に何ヶ所かあります。

オノゴロ島の伝承地で特に有名なのは、淡路島南部にある「沼島」になります。

淡路島観光協会の「沼島」紹介ページ

神と命の違い

伊邪那岐と伊邪那美が神世七代として出現した時は、伊邪那岐の「」・伊邪那美の「」と記されていましたが、別天津神より国造りの詔を受けて以降は、伊邪那美の「」・伊邪那美の「」とその敬称が変わっています。古事記では明確に神と命の使い分けが行われているそうなのですが、どういった基準で使い分けが行われているのでしょうか。

伊邪那岐と伊邪那美の敬称が神から命に変わった時をみると、別天津神より国造りという「命を受けて」変わっています。何かの命を受けた時、その神の敬称が「命」に変わるという基準の様です。この事から「神」と「命」では神の方が上位の敬称であるという事がなんだろうと思います。

まとめ

伊邪那岐と伊邪那美はオノゴロ島を作った後、この島に降り立ち、聖婚、国生み、神生みへと繋がっていく事になる、いわば国造りの拠点というべき島になります。日本神話では日本生誕の地といっても過言ではないのではないでしょうか?。

-古事記を読む