古事記を読む

伊邪那岐・伊邪那美|淤能碁呂嶋での聖婚

2021年6月17日

淤能碁呂嶋での聖婚

前回、まだどろどろだった国(地)を天布矛でかき混ぜて、垂れた雫が積み重なってできたのが「淤能碁呂嶋」であるという所まで紹介しましたが、今回は、伊邪那岐・伊邪那美がこの淤能碁呂嶋に降り立ち、国生みの至るまでの話になります。

簡単にいえば、男と女の性交と当時の男女間のしきたり?みたいなものの話になります。しきたりを守らないと蛭子が生まれるなど飛鳥時代から奈良時代にかけての男と女の関係はこうあるべきという姿を伺い知る事ができる個所だと思います。

古事記を読む

見立天之御柱。見立八尋殿。於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。以爲生成國土生奈何。(訓生云宇牟。下效此。)伊邪那美命答曰然善。爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比。(此七字以音。)如此云期。乃詔汝者自右廻逢。我者自左廻逢。約竟以廻時。伊邪那美命。先言阿那邇夜志愛(上)袁登古袁。(此十字以音。下效此。)後伊邪那岐命言阿那邇夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰女人先言不良。雖然久美度邇(此四字以音。)興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次淡嶋是亦不入子之例。

於是二柱神議云。今吾所生之子不良。猶宜白天神之御所。即共參上。請天神之命。爾天神之命以。布斗麻邇爾(上。此五字以音。)ト相而詔之。因女先言而不良。亦還降改言。故爾反降。更往廻其天之御柱如先。於是伊邪那岐命。先言阿那邇夜志愛袁登賣袁。後妹伊邪那美命。言阿那邇夜志愛袁登古袁。

引用元:古事記上つ巻

天之御柱とは、「天津神の神霊の依代となる聖なる柱」をさし、八尋殿とは、広大な殿舎という意味で、「伊邪那岐・伊邪那美の新室の事」をさす。

歴史的仮名づかい訳

その嶋に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここに、その妹伊邪那美の命に問ひて、
「なが身はいかにか成れる。」
と曰らししかば、
「あが身は、成り成りて成り合はざる処一処あり。」
と答へ白しき。しかして、伊邪那岐の命の詔らししく、
「あが身は、成り成りて成り余れる処一処あり。かれ、このあが身の成り余れる処をもちて、なが身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに。」
伊邪那美の命の答へ曰ししく、
「しか善えむ。」
しかして、伊邪那岐の命の詔らししく、
「しからば、あとなことの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ。」
と、かく期りて、すなはち、
「なは右より廻り逢へ。あは左より廻り逢はむ。」
と詔らし、約り竟えて廻る時に、伊邪那美の命先づ、
「あなにやし、えをとこを。」
と言ひ、後に伊邪那岐の命
「あなにやし、えをとめを。」
と言ひ、おのもおのも言い竟へし後に、その妹に告げて、
「女人の言先ちしは良くあらず。」
と曰らしき。しかれども、くみどに興して生みたまへる子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき。次に、淡嶋を生みたまひき。こも子も例には入れず。

ここに、二柱の神議りて云ひしく、
「今、わが生める子良くあらず。なほ天つ神の御所に白すべし。」
といひて、すなはち共に参上り、天つ神の命を請ひたまひき。しかして、天つ神の命もちて、ふとまに卜相ひて詔らししく、
「女の言先ちしによりて良くあらず。また還り降り改め言へ。」
かれかして、返り降りまして、さらにその天の御柱を往き廻りたまふこと先のごとし。
ここに、伊邪那岐の命先づ、
「あなにやし、えをとめを。」
と言ひ、後に伊邪那美の命
「あなにやし、えをとこを。」
と言ひき。

引用元:新潮日本古典集成 古事記 西宮一民 校注

歴史的仮名づかいを読んでも内容が分かりますが、「古事記は日本最古のエロ本」とも言われてしまう要因となる部分になります。これをさらに現代語に訳すときどうしようかと悩んだのですが、何となくぼやかそうとおもったら変な感じの訳になってしまいました・・・。

さらに現代語に訳すと

淤能碁呂嶋に降り立った伊邪那岐と伊邪那美はまず、別天津神の依代となる「天の御柱」と新居となる「八尋殿」を建てた。
そして、伊邪那岐は伊邪那美に対し、
「あなたの体はどうのようにできているのか。」と聞かれたので、
「私の体は出来上がっているが、一ヶ所だけ出来きらない場所があります。」と答えた。
すると、伊邪那岐は
「私の体も出来上がっているが、出来上がりすぎた場所が一ヶ所ある。だから、私の出来上がりすぎた場所(男根)をあなたの出来切っていない場所(女陰)に刺し塞いで国を生み出していこうと思うがどうだろうか。」
伊邪那美は「それでよいです」と答えると、
伊邪那岐は「では、私とあなたとで、この天の御柱の周りを廻って会ったら性交しよう。」と約束を交わした。
そして、「あなたは右回りで私に、私は左回りであなたに会おう」と伊邪那岐が提案し、二神は天の御柱の周りをそれぞれ廻っていった。
「あ~、なんていとおしい方なのでしょう。」
二人が出会った時、先に伊邪那美が声をかけ、それにこたえる様に
「あ~、なんてかわいい娘なんだろう。」
と伊邪那岐が応じたが、
「もしかしたら女性から声をかけるのは良くないのではなかっただろうか。」
と不安になっていた。
そして、新居にて性交をしうまれた子は水蛭子であった。この子は、葦船に乗せて流ししてしまった。
次に生まれたのは淡島であったが、この子も子供の数には数えない。

ここで伊邪那岐と伊邪那美は相談するが、
「今まで生まれた子供たちはどうも良くなかったので、原点に立ち返って天津神のもとに相談しいこう。」
と言い、二人で天津神のもとに参上し、天津神に意見を聞いた。すると天津神は(鹿の骨を焼いた)占いによって助言をした。
「女性から先に声をかけてしまったのが良くなかった。再び淤能碁呂嶋に降り立ち、改めて(天の御柱の周りを互いに廻り)男性から声をかけなさい。」
こうして伊邪那岐・伊邪那美は再び淤能碁呂嶋に降り立ち、更に前回同様に天の御柱の周りを廻り、二人は出会った。
ここで、伊邪那岐が先に
「あ~、なんてかわいい娘なんだろう。」
と言い、そして伊邪那美が
「あ~、なんていとおしい方なのでしょう。」
と言った。

歴史書である古事記に「男女のまぐわい」についての記述があるのは、天皇家が伊邪那岐・伊邪那美の血を引いた一族であり、日本列島を統治する正統性を示す為なんだろうと思います。

そして、最初に生れた子供は「水蛭子ひるこ」であったと記されています。ただ、どんな子だったのかは古事記の原文を見ても「生子水蛭子。此子者入葦船而流去。」と書いてあって、この原文をそのまま訳せば「生まれた子は水蛭子。この子は葦船に入れて流し去った。」となって、見るからにどんな子だったのかは書かれていません。
ただ、日本書紀の一書の中には古事記とほぼ同様の内容で、伊邪那美から声をかけてしまった為に最初に生れた子が「水蛭子」であったとする内容の物も記載されているのですが、日本書紀本文の内容を読んでいくと、天照大御神、月読神、水蛭子、素戔嗚尊と三貴神生誕時に水蛭子も生まれたとなっているのですが、「水蛭子は三歳になっても立てなかったため、天磐櫲樟船あめのいわくすふねに載せて風のままに流して捨ててしまった。」と書かれています。

水蛭子は恵比寿!?

兵庫県西宮市に鎮座する「西宮神社」の御祭神の一柱に「えびす大神(蛭児大神)」が祀られています。西宮神社の由緒では、この「えびす大神」こそが、伊邪那岐・伊邪那美の子であり三歳になっても立てなかった為、葦の船に載せられて流し捨てられたという「水蛭子」であるとしています。
何時しか海からやってくる「水蛭子」と海の神である「えびす」がいつの間にか融合していったと考えられているようです。

「水蛭子」の次に生まれたという「淡島あわしま」についてに記述も古事記ではまったく触れられておらず、「生まれたが子供の数には入れない。」と書かれているだけになります。日本書記の一書には、エナ(胎盤)であったとする記述があります。当時は胎盤も一子と数えていた文化があったという事なんすかね。だとすると、「水蛭子が生まれた時についてきた胎盤を古事記では「淡島」と称しているが胎盤なので子供の数に数えなかった。」と読むことができるのですがどうでしょうか。

まとめ

別天津神より勅命を受けた「国造り」を順調に進めていた伊邪那岐・伊邪那美ですが、いよいよ「国生み」に入ろうかというときにつまずいてしまう形になります。ただ、このつまづきについては、今から1300年も以前の話なので、2021年に住んでいる自分では当時の事なんて想像できるわけないのですが、当然当時の人には古事記の内容は天皇の勅命で編纂されている事もあって、さも当然だと受け入れられる内容になるはずなので、全国各地の風習などを取り入れられた結果なんじゃないでしょうか。

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