
建稲種命とは?
建稲種命の伝承
景行天皇四十年(単純計算で西暦110年)、ヤマトタケルは征西から都に帰還後すぐに今度は東国の蝦夷を征伐する「東征」を命じられます。この時、ヤマトタケルは「征西から帰ってきたところだから兄である「大碓皇子」を遣わすべきだ」と東征を拒否したという伝承と、「征西から帰ってきたところだが、私が蝦夷を征伐してきましょう。」と自ら名乗りを上げたとする伝承が残っています。
東征に赴く事になったヤマトタケルは、都から伊勢国に居る「倭姫命」を訪ねています。この時、倭姫命から「天叢雲剣」と「火打石」を授けられ、ヤマトタケル率いる東征軍は現在の桑名の辺りから海路で伊勢湾を横断して尾張国に向かったとされ、伝承ではいくつかの湊や島を経由して現在の東海市名和町に鎮座する「船津神社」の周辺に上陸したと伝えられています。
尾張国に上陸したヤマトタケル率いる東征軍を出迎えたのは、尾張国造であった「建稲種命」でした。
出迎えた建稲種命は妹「宮簀媛」が住む火上山の屋敷にヤマトタケルを案内し、東征軍への増軍の準備が整うまでの間この屋敷に滞在させています。(この間、ヤマトタケルが率いてきた軍勢は船津神社周辺に駐屯していたと考えられます。)ヤマトタケルを自らの屋敷があったと伝わる師崎ではなく、火上山の屋敷に案内したのは、東征軍が上陸した場所から近かったという地理的な条件と、ヤマトタケルが滞在している間の世話役を妹である「宮簀媛」に任せたからなのでしょう。
結局、その後ヤマトタケルと宮簀媛が恋仲になり、東征から尾張国に帰国した後には夫婦となっているのですから、ある意味建稲種命の思惑通りだったとも言えなくもないかな?
尾張国にて増軍を行った東征軍に建稲種命自らも副将として従軍。陸路を進むヤマトタケルに対して、海路を進む海軍の司令官だったようです。陸軍は陸路を岡崎方面経由で浜名湖方面に、海軍は三河湾を出て遠州灘を東(現在の静岡県の新居周辺)を目指したと思われます。当時の海軍は、敵の海軍との戦いもさることながら、物資の輸送というのが主な任務になっていたと思われるので、建稲種命率いる海軍は浜名湖近くであとからやってくる陸軍を待っていたのではないかと思います。
ただ、東征の最中においては建稲種命はどういった行動をしていたのかはよくわかりませんが、事件は東征が成功し、尾張国に向かう最中に起ります。尾張国に向け駿河湾を西に向かっていた船上にて、珍しい鳥を見つけた建稲種命は捕まえてヤマトタケルに献上しようと考え、この鳥を捕えようとした時、誤って船から転落し死亡してしまったといいます。
幡豆郡(現在の西尾市)に伝わる伝承では、建稲種命の遺骸がある日、亀石と呼ばれる海岸にある岩に流れ着いた。来ていた衣服が高貴な方の物であったので、地元の人々は、「とても偉い方の遺体だろう。このままでは忍びないので幡豆岬の高台に埋葬しよう。」という事で、延喜式内社である「幡頭神社/紹介記事」の境内地になる場所に埋葬したと伝承されています。
ヤマトタケルの東征軍の副将として軍功を挙げたと思われる建稲種命ですが、その遺構は尾張国南部から三河国の幡豆郡などに集中している感じです。この事から、建稲種命の勢力は尾張国南部から西三河南部に跨る場所であり、東征軍で海軍の指揮官を務めたとする伝承から尾張国造は海軍力に長け、伊勢湾三河湾の海上輸送などを牛耳っていた一族だったのでしょう。
神々のデータ
神名 | 建稲種命 |
神祇 | 人神 |
別称 | ー |
親 | 父:乎止与命 母:眞敷刀婢 |
兄弟 | 妹:宮簀媛 |
配偶 | 玉姫 |
子 | 尾綱根命 志理都紀斗売 金田屋野姫命 |
備考 | ー |
建稲種命を祀る神社
- 幡頭神社
まとめ
神話の時代から平安時代という名が雉台に渡り朝廷と非常に強い関係性を持っていた尾張国造であった尾張氏の末裔はその後熱田神宮の社家として大宮司を務めています。この熱田神宮の御神体とも言われる「草薙剣」は天皇家の三種の神器の一つとされていますが、そもそも宮中にはなく、熱田神宮に納められている草薙剣がなぜ三種の神器のひとつとなったのでしょうか。もしかしたら、東征における建稲種命の活躍がひとつの要因になったのかもしれませんね。