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巻第八 仲哀天皇<足仲彦天皇>|皇后の神懸り

2021年7月1日

神功皇后の神懸り

 前回は、周愛天皇は熊襲征伐の為に穴門の豊浦宮にて軍勢を整備、そして仲哀天皇八年に豊浦宮を出発、海路で九州北部の沿岸を進軍し、途中、岡縣主の熊鰐、伊都縣主五十迹手を従えながら橿日宮に進んだまでを紹介してます

そして、今回は、橿日宮にて熊襲征伐の軍議が開かれる事になるのですが・・・

秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂𣑥衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。」

  • 秋九月乙亥朔己卯は仲哀天皇八年九月十五日
  • 膂宍之空国とは豊沃でない土地、​やせた土地、不毛の地という意。
  • 向津國とは海の向こうの国という意で、ここでは新羅の事をさす
  • 穴門直踐立は長門国豊浦郡に鎮座する住吉荒魂神社の神官となる

現代語訳

仲哀天皇八年九月十五日、天皇は臣下を集め熊襲征伐の軍議を開かれた。この時、神が降臨し、皇后に託かり神託を与えた。

「天皇よ、熊襲が従わぬ事がなぜそんなに不服なのだ。熊蘇が治める国は痩せた地である。そんな地に兵を向ける必要があるだろうか。そんな国よりも素晴らしい宝の国、例えば処女の眉引の様な国が生みの向うにある。眩いばかりの金・銀・宝石がその国にはたくさんある。その国を新羅国という。

 私を祀るのならば、刃を血で濡らすことなく、その国は自ら服従を申し入れるだろう。そして熊襲もまた服従をしてくるだろう。祀る際には、天皇の御船と、穴門直踐立が献上した大田と称する水田を幣帛として献上しなさい。」

天皇聞神言、有疑之情、便登高岳、遙望之大海、曠遠而不見國。於是、天皇對神曰「朕周望之、有海無國、豈於大虛有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等、盡祭神祇、豈有遺神耶。」時神亦託皇后曰「如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎、其子有獲焉。」然天皇猶不信、以强擊熊襲、不得勝而還之。

  • 神祇とは天津神・国津神を指す。天神地祇の事
  • 天津水影は天津は高天原として、「天から見下ろしていて水にうつる影のように」という意
  • 汝王は天皇のこと

現代語訳

天皇は神託をお聞きになりましたが、どうしても信じられず、高い山に登り遥か遠くの大海を望むが、まったくそんな国は見られません。

そこで、天皇は神に奉りて曰く、「我は、周囲を望んでみたが、海はあれど国はまったく見えなかった。何もない所に国があるというのですか。一体何という神が我をだまそうとしているのか。我が皇祖である歴代の天皇はすべての天神地祇を祀られてきた。どうして祀っていない神がおられようか。」と申すと、再び神が皇后に託かり神託を与えた。

「水に移った影の如く鮮明に、自分が上から見下ろしている国があるのに、何故国がないと我の言葉を誹謗するのか。天皇よ、この言葉を最後まで信じないのならば、その国を手に入れる事は出来ないだろう。ただ、今皇后が初めて身籠り、その子がその国を得る事だろう。」

しかし、天皇は神託をそれでも信じず、熊襲征伐を強行したが、勝つことは出来ず帰還された。

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。」則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。

  • 九年春二月癸卯朔丁未は仲哀天皇九年二月五日
  • 一云とはある伝承によるとの意
  • 百官とは多くの官僚という意
  • 殯とは古代日本で行われていた死の確認作業。遺体が腐敗、白骨化する事で死を確認していたという。

現代語訳

仲哀天皇九年二月五日、天皇は突然痛身となり、翌日崩御なされた。時に五十二歳。神の御神託を信じられなかった為に崩御されたとわかりました。

ある伝承では、「天皇は熊襲討伐戦において賊の矢を受けて崩御された」と伝えられています。

皇后と武内宿禰は天皇の崩御を隠し、天下にも知らせませんでした。皇后は武内宿禰および中臣烏賊津連なかとみのいかつのむらじ大三輪大友主君おほみわのおほともぬしのきみ物部膽咋連もののべのいくひのむらじ大伴武以連おほとものたけもつのむらじを呼び寄せ、「今天下は天皇が崩御なされたことを知らない。今民達がこの事を知ったら、何も手に着かないものが現れるだろう。」として四人の大夫に命じて、多くの官僚を動員して宮中を守らせました。

密かに天皇の遺骸を収めると武内宿禰に授け、海路にて穴門へと移りました。そして豊浦宮にてでもがりを行うのですが、天皇の崩御を知らしめていない為、火を灯さずに極秘で殯を行う无火殯斂ほなしあがりで行われました。

同年二月二十二日、武内宿禰は穴門から戻り、皇后に帰還を報告しました。この年は、新羅征伐が行われた為、天皇を葬る事ができなかった。

ざっくりとまとめてみる

 仲哀天皇は橿日宮にて熊襲征伐の軍議を行いますが、その席で突如皇后に神懸かりが起こり、「熊襲の様な痩せた地を攻めても得られるものが少ないので、それより海の向こうにある新羅を攻めるがよい。さすればもれなく熊襲の地も得る事ができるだろう。」という御神託がありましたが、天皇はその言葉を疑い、高い山に登って海の向こうに国があるか確認しますが、確認する事ができません。「海の向こうに国が見えないのは自分を欺こうとしている神に違いない。」とするが、神は「遥か天空より見下ろしている自分が国があるというのになぜ信じないのか。信じないのならば、その国は手に入れる事ができないだろう。そして、その国は皇后が身籠っている御子が手にれるだろう。」
 やはり神託を信じられなかった仲哀天皇は熊襲征伐を強行しますが失敗し、橿日宮に帰還します。仲哀天皇九年二月に突如痛身となり、翌日には崩御なされてします。皇后と重臣は天皇の崩御を知られないように極秘裏に天皇の遺骸の殯を終了させますが、この年は、皇后による新羅征伐が行われた為、天皇を埋葬する事ができませんでした。

コラム

古事記と大きく異なる点が、仲哀天皇の死とその後の祭祀の違いになります。 

 日本書紀では、神託があった日と仲哀天皇が崩御された日が離れており、明確に神罰によって崩御されたとするより、崩御されたのを受けて、そういえば御神託を天皇は信じていなかったなといった感じで神罰と結びつけている感じを受けますが、これに対し古事記は、神功皇后の神懸かりの最中、神の神託を信じなかった仲哀天皇は急死してしまうというまさに神罰で崩御したという事を明確に意識づけさせるような内容になっています。
 この事は、崩御後の祭祀にも違いが表れていて、日本書紀では古代日本で行われていた死を確認する殯が行われるのに対し、古事記では崩御したのは罪の為だとして、国中から大幣を集めての大祓の神事が行われています。

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