
神功皇后の神懸り
前回は、周愛天皇は熊襲征伐の為に穴門の豊浦宮にて軍勢を整備、そして仲哀天皇八年に豊浦宮を出発、海路で九州北部の沿岸を進軍し、途中、岡縣主の熊鰐、伊都縣主五十迹手を従えながら橿日宮に進んだまでを紹介してます
そして、今回は、橿日宮にて熊襲征伐の軍議が開かれる事になるのですが・・・
秋九月乙亥朔己卯、詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂𣑥衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。」
- 秋九月乙亥朔己卯は仲哀天皇八年九月十五日
- 膂宍之空国とは豊沃でない土地、やせた土地、不毛の地という意。
- 向津國とは海の向こうの国という意で、ここでは新羅の事をさす
- 穴門直踐立は長門国豊浦郡に鎮座する住吉荒魂神社の神官となる
天皇聞神言、有疑之情、便登高岳、遙望之大海、曠遠而不見國。於是、天皇對神曰「朕周望之、有海無國、豈於大虛有國乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等、盡祭神祇、豈有遺神耶。」時神亦託皇后曰「如天津水影、押伏而我所見國、何謂無國、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其國。唯今皇后始之有胎、其子有獲焉。」然天皇猶不信、以强擊熊襲、不得勝而還之。
- 神祇とは天津神・国津神を指す。天神地祇の事
- 天津水影は天津は高天原として、「天から見下ろしていて水にうつる影のように」という意
- 汝王は天皇のこと
九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。」則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。
- 九年春二月癸卯朔丁未は仲哀天皇九年二月五日
- 一云とはある伝承によるとの意
- 百官とは多くの官僚という意
- 殯とは古代日本で行われていた死の確認作業。遺体が腐敗、白骨化する事で死を確認していたという。
ざっくりとまとめてみる
仲哀天皇は橿日宮にて熊襲征伐の軍議を行いますが、その席で突如皇后に神懸かりが起こり、「熊襲の様な痩せた地を攻めても得られるものが少ないので、それより海の向こうにある新羅を攻めるがよい。さすればもれなく熊襲の地も得る事ができるだろう。」という御神託がありましたが、天皇はその言葉を疑い、高い山に登って海の向こうに国があるか確認しますが、確認する事ができません。「海の向こうに国が見えないのは自分を欺こうとしている神に違いない。」とするが、神は「遥か天空より見下ろしている自分が国があるというのになぜ信じないのか。信じないのならば、その国は手に入れる事ができないだろう。そして、その国は皇后が身籠っている御子が手にれるだろう。」
やはり神託を信じられなかった仲哀天皇は熊襲征伐を強行しますが失敗し、橿日宮に帰還します。仲哀天皇九年二月に突如痛身となり、翌日には崩御なされてします。皇后と重臣は天皇の崩御を知られないように極秘裏に天皇の遺骸の殯を終了させますが、この年は、皇后による新羅征伐が行われた為、天皇を埋葬する事ができませんでした。
仲哀天皇が亡くなり、次の天皇となる御子はいまだ神功皇后のお腹の中。この時から御子が生まれて天皇に即位するまでの間、神功皇后による統治帰還となります。神功皇后による統治期間は69年にも及ぶとか。
神功皇后|新羅征伐へ