
神社情報
神社名 | 天満神社 |
鎮座地 | 福井県敦賀市新栄町 |
御祭神 | 菅原道真命 |
創 建 | 不詳 |
社格等 | 郷社 |
神名帳 | ー |
例大祭 | 七月二十五日 |
境内社 | 恵比寿神社(祭神:事代主命) 稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神) |
御朱印 | ー |
URL | ー |
御由緒
拝殿に張り出されていた由緒書きを読むと
天満神社の多くは菅原道真公の人徳と学徳を景仰して、京都の北野天満宮、大宰府の天満宮などから勧請して創建されている。が、ここ敦賀の天満神社は、道真公が敦賀の気比宮に再度参拝している因縁によって祀られた神社である。
菅原道真公は清和天皇の御代貞観十五年(839年)に勅命を受け、外交上の警戒を必要とし、気比宮に平安を祈られた、時に道真公二十九歳の時である。その後四十九歳の時、宇多天皇の勅使として気比宮に幣帛を奉納するなど幾度とこの敦賀に足跡を留め、道真公と敦賀は深い因縁で結ばれていた。
天満神社 由緒書きより
としています。
気比神宮との関係は非常に強かったようで、気比宮社記にも登場しているようで、
天満神社は天元三年(980年)仲哀天皇の行宮の旧跡である川向御所辻子(現在の敦賀市元町周辺)正面の南森に坐す。
と記されており、少なくとも創建1,000年は経過している神社であるといえます
慶長八年(1603年)には越前藩主「結城秀康」が泉村の田地五石を寄進し、その後も小浜藩主京極氏、酒井氏からの厚い崇敬を受けており、
寛永四年(1627年)社殿造営
正保四年(1647年)に拝殿新築
寛文三年(1663年)に拝殿再建
享和二年(1802年)に九百年祭催行
文政三年(1820年)石鳥居建立
と記録が残されています。
明治八年に郷社に列格、この時、気比神宮の摂社に指定されています。しかし、翌明治九年には摂社から外されています。
大正四年に書かれた敦賀郡誌に元々境内社が
- 恵美須社(祭神:事代主命)
- 光神社(祭神:雷神)
- 地神社(祭神:地主神)
- 日吉神社
- 稲荷神社
- 内外両宮 (二座)
- 白太夫社
の八社があったと記されています。
その後、昭和二十年の敦賀空襲により寛永四年に造営された本殿を含めすべての社殿を焼失してしまったそうです。そして、昭和三十五年に滋賀県の旧佐和山神社の社殿を本殿とする移転再建が行われています。
移築された社殿は本殿、石之間、拝殿で構成された権現造の社殿になり、敦賀市の文化財に指定されています。
参拝記
気比神宮から金崎宮&金崎城址に向かうルートの途中に鎮座していた神社になります。気比神宮、金崎宮の両社とも官幣社であることから、今回参拝する天満神社がこの辺りの氏神として崇敬されていたのではないでしょうか。
鳥居

建立年月は調べ忘れてしましましたが、扁額が掲げられた明神鳥居になります。
社号標

旧社格である「郷社」が合わせ彫られている社号標になります。文体が中々達筆です。
手水舎

銅葺木造四本柱タイプの手水舎になります。四本柱タイプの手水舎としては非常にコンパクトな造りですね。貫も上下に設けられていて非常に耐震性の高い手水舎の造りになっているかと思います。
社殿

参道から真っ直ぐ社殿を望みます。
ここ天満神社の社殿配置は自分が住んでいる愛知県では見かけた事がない配置となっています。

社殿の前に、社務所が建てられていて、長屋門の様に潜って参拝する様式になっています。最初、割拝殿なのかなと思ったのですが、どうも社殿を見ると拝殿と本殿が一体となった権現造になっているので、この社殿の前に立っている建物は看板が掲げられている様に社務所なんだなと。


江戸時代に建立された権現造の社殿らしく、非常に装飾が目を引く社殿になっています。これだけ立派な社殿をもつ神社が当時の神社統合策によって合祀され廃社となってしまった事を考えると、もしかしたらもっと歴史のある社殿などが解体されてしまっている可能性もありますね。
境内社

恵比寿神社(御祭神:事代主命)
地図で鎮座地を確認
神社名 | 天満神社 |
鎮座地 | 福井県敦賀市栄新町1-6 |
最寄駅 | 敦賀市コミュニティーバス「金崎宮口バス停」徒歩1分 |