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幡頭神社(愛知県西尾市吉良町)延喜式内社

2021年11月28日

神社情報

神社名幡頭神社
鎮座地愛知県西尾市吉良町宮崎留谷六十番地
御祭神建稲種命
譽田別尊
大物主神
創 建大宝二年(702年)
社格等県社
神名帳延喜式神名帳:三河国幡豆郡 羽豆神社
三河国神名帳:幡豆郡正一位 羽利大明神
文化財国 宝:
国指定:幡豆神社本殿
県指定:神明社本殿、熊野神社本殿
市指定:
例大祭十月第一日曜日
境内社神明社
熊野社
山住社
伊勢神宮
龍神社(綿津見社)
秋葉神社
津島神社
金刀比羅宮
石清水八幡宮
稲荷神社
URL
御朱印〇(神職や氏子総代さんが社務所にいる時は頂ける様です。)
参拝日:2021年9月28日

御由緒

 社伝によると、創建は大宝二年(702年)九月九日であると伝えられています。

 大宝二年、四十二代文武天皇の勅命により、ヤマトタケルの東征に非常に功績をあげた「建稲種命」の遺骸が埋葬されたと伝承される幡豆の岬に社殿を造営、御神体として「矛」を寄進されています。この時を幡豆神社の創建としているようです。

  • 仁寿元年(851年)十月、従五位下の神階を授けられる。(文徳実録)
  • 醍醐天皇の御代(897-930年)、社殿再建を藤原時平に命じ、社殿造営し剱が寄進される。
  • 延長五年(927年)、延喜式神名帳に「参河国幡豆郡 羽豆神社」と記載される。
  • 天正八年(1580年)、現在の本殿が造営、同時に神明社、熊野神社の本殿も造営される。

 幡頭神社には、藤原時平寄進の剣の他に、足利義満寄進の太刀、獅子頭、足利尊氏(延文二年)また義満(応永七年)寄進の扁額などが社宝として伝えられています。

  • 明治五年九月一日、郷社に列格。
  • 明治四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定を受ける。
  • 明治四十三年八月四日、字丸山の八幡社と字退張地の琴平社を合祀。
  • 大正十年三月二十六日、縣社に昇格。
  • 昭和十九年十二月二十七日発生の地震により幣殿、神門倒壊。

幡頭神社の御祭神は?

 現在の幡頭神社の御祭神は建稲種命、譽田別尊、大物主神の三柱となっています。

 主祭神は「建稲種命たけいなだねのみこと」。

 譽田別尊、大物主神は明治四十三年八月四日に行われた大字宮崎字丸山に鎮座し八幡宮と大字宮崎字退張地に鎮座し琴平社の合祀によって幡頭神社の配神として本殿に祀られる様になった御祭神になります。

 日本神話最大の英雄とも言われている「ヤマトタケル」が東国を平定する為に行った「東征」が古事記、日本書記に記されていて、さらに各地にヤマトタケル伝承地が伝わっています。このヤマトタケルの東征に協力した人物こそ、尾張国造であり、ヤマトタケルの妃となる「宮簀媛」の兄であった「建稲種命」になります。

 建稲種命はヤマトタケルの東征の副将軍としてどうやら東征軍の海軍を指揮し海路で東に進軍しています。(ヤマトタケルは陸軍を指揮していた様です。)そして、東征を終えた後、都への戻る途中、建稲種命は海軍を率いて海路で尾張を目指す中、駿河湾沖で水難事故の為、建稲種命は船から転落してしまった様です。そしてその遺骸が幡豆海岸に流れ着き、里の者達は遺骸を海岸から現在の幡頭神社の境内地の場所に移し埋葬したと伝えられています。

メモ

 西尾市西幡豆町に鎮座している「幡豆神社」は建稲種命の遺骸が流れ着いたとする場所に鎮座する神社になります。その遺骸が流れ着いた場所は、幡豆神社の境内にある「亀石」の場所だとも言われています。

 建稲種命が流れ着いたといわれている亀石になります。元々は海岸線にあったとされる亀石ですが、護岸工事などで今ではかなり内陸に位置しています。

 建稲種命の屋敷は、現在熱田神宮の境外摂社である「氷上姉子神社」の元宮が鎮座している「火上山」にあったと伝えられています。この屋敷跡は、ヤマトタケルが無くなった後、宮簀媛が草薙剣を祀り奉祀していた場所であったことから熱田神宮の元宮という事ができる場所になります。

由緒書き

 「延喜式神名帳」に小社幡豆郡とある神社で、景行天皇の四十年、日本武命、征東の副将軍建稲種命聖戦の帰途駿河湾にて逝去。その遺体幡豆の岬に漂着し里人手厚く葬る。その後文武天皇大宝二年(702年)九月九日社殿を建て矛を納め神体とした。「文徳実録」に仁寿元年(851年)十月幡豆郡に従五位下を授けるとあり、醍醐天皇(897-930年)社殿大破したのを藤原時平に命じて造営神劔をおさめた。足利尊氏、今川義元、織田信長らの崇敬あり。住民の信仰もあつく、一名羽利神社とも称して漁民釣針を奉献する慣習あり。明治五年九月一日郷社に列し同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進指定をうく。同四十三年八月四日、字丸山の八幡宮と字退張地の琴平社を本社に合祀する。大正十年三月二十六日、懸社に昇格した。昭和十九年十二月二十七日東海地震に幣殿八.七五坪、神門一.〇〇坪倒壊。平成二年拝殿の瓦葺屋根替、同三年三月本殿の桧皮屋根替を完了。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

参拝記

 吉良温泉街のある吉良町宮崎の海沿いを通る市道沿いに幡頭神社の参道入口があります。幡頭神社の目前には駐車場があってその先に海水浴場が広がっています。海水浴シーズンになるとこの駐車場は有料となり、さらに非常に混雑するので、車で参拝に向かわれる方は夏場は避けた方がいいのかもしれませんね。

境内入口

 海岸線から参道が続いているのですが、上り坂と石段を登った先に、社号標と一の鳥居が据えられています。このからの参道の左右には松が植えられていて非常に趣きのある参道になっていきます。

 この鳥居と社号標が据えられている場所に、「延喜式官社二十六座之内 羽豆神社」と彫られた石柱が設置されています。

 この一の鳥居の場所から海を望むと、眺望が開けていて眼下に三河湾が広がっています。沖合には佐久島が見渡せ、その先には知多半島の稜線を望むことができます。

 この海の向う、知多半島の先端である「師崎」にはここ幡頭神社と同じく「建稲種命」を御祭神とする羽豆神社が鎮座しています。そして、羽豆神社も延喜式神名帳に「尾張国知多郡 羽豆神社」と記されている式内社になります。
 こちらの幡頭神社が建稲種命の終焉の地であるとしたら、師崎の羽豆神社は建稲種命の(東征への)旅立ちの地という事になるかと思います。師崎の地は建稲種命と妻の玉姫が屋敷を構えていた場所であるとされ、建稲種命が東征に出陣した後、妻の玉姫は夫の帰りをずっと待ち続けていた場所と伝えられ、「待合浦」とも呼ばれている場所になります。

二の鳥居

 一の鳥居から松に囲まれた参道を進み、石段を登った先に扁額が設けられた明神鳥居の二の鳥居が据えられています。

手水舎

 手水舎は簡素なコンクリート造りとなっていました。

狛犬

社殿

幡頭神社は社殿全体を瑞垣と塀で囲んでいる配置となっています。正面側の瑞垣の開口部はまるで石柱門の様な独特な造りとなっています。

 2017年1月2日に幡豆神社に初詣した時、瑞垣の前に提灯を掲げた門?が設置されていました。自分の地元ではこういった提灯門を設置する風習はないので、この門が幡頭神社特有のものなのか、この地方では当たり前の物なのかはよくわかりません。

 入母屋造瓦葺平入の高覧のある濡れ縁のある拝殿を有する社殿になります。こうした社殿配置の神社の場合、本殿周囲に瑞垣が設けられて本殿の近くに行けない様になっている神社が大半なのですが、ここ幡頭神社は・・・。

 境内社の熊野神社や神明社の社だけでなく、さすがに、本殿の正面(正中)部分には立ち入る事ができない様になってはいますが、幡頭神社の本殿までもすぐ近くでその造形を鑑賞する事ができます。国の重要文化財になると中々近づけない様になっている所が多い中・・・というか、神社の本殿は基本的に瑞垣で囲まれた中に鎮座している事が多いので、こんなアングルで写真を撮影する事はまず不可能・・・文化財を身近に感じられる稀有な神社だなと思います。

境内社

 本殿向かって左手に鎮座する妻入りの社が熊野神社、向かって右に鎮座する平入りの社が神明社になります。この二社の社が愛知県の指定文化財となっています。

地図で鎮座地を確認

神社名幡頭神社
鎮座地愛知県西尾市吉良町宮崎留谷六十番地
最寄駅名古屋鉄道 蒲郡線「三河鳥羽駅」徒歩37分

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