古事記を読む

仲哀天皇|応神天皇の聖誕

2021年7月7日

応神天皇の聖誕

 神功皇后は仲哀天皇が崩御された後、神託に従い新羅征伐を実行しますが、この時皇后のお腹の中には後に十五代天皇となる御子がいました。この事から、妊娠中にもかかわらず、何か月にも及ぶ新羅征伐という軍事行動による海外出兵の陣頭指揮を執るという過酷な状況に置かれていながらも、さらに戦地で出産する訳にはいかないと無理やり出産を遅らせるといった驚異的な行動を無事に遂行するなどの類まれな肉体能力と精神力をもった女性といった感じで描かれていると思います、簡単にいえば「まさに女帝」と言った所でしょうか。

 新羅国の国王が臣従する事で新羅征伐を終了させた神功皇后は帰国の途に就くことになります。そして、新羅征伐の拠点であった橿日宮に到着した前後で出産する事になった様なのですが・・・。

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故其未竟之間、其懷妊臨產。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。<阿禮二字以音。>故、號其御子生地謂宇美也、亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。

  • 政はここでは神功皇后の新羅征伐を指す
  • 福岡県糸島群二丈町に鎮懐石八幡が鎮座している。
  • 筑紫国末羅縣玉嶌とは、現在の佐賀県東松浦郡浜玉町南山の地を指す。

現代語訳

 さて、まだ新羅征伐が完了する前、皇后が身籠っていた御子が生まれそうになった。そこで、皇后は出産を抑えようとして石を取って御裳の腰部分に巻いて、筑紫の国に渡ってからその御子をお生みになられた。

 そこで、その御子はお生まれになった土地の名にちなんで宇美うみと名付けられた。また、御裳にお付けになられた石は筑紫国の伊斗いとの村にある。

 また、筑紫国の末羅縣まつらあがたの玉嶋の里にお着きになり、玉島川の辺で食事をとられた時、それは四月の上旬でした。そこで、川の中の岩にお座りになり、御裳の糸を抜き取り、ご飯粒を餌にして、その川の年魚あゆをお釣りになった。(その川の名を小河といい、またその岩の名を勝門比売という。)

こうした理由で、四月の上旬に、女性たちが裳の糸を抜き、ご飯粒を餌にして年魚を釣るという風習は今に至るまで絶えない。

コラム

 古事記のこの段に書かれている場所を地図に落とし込んでみました。地図で見る限りでは博多湾に面している訶志比宮(日本書記では橿日宮)を熊襲征伐と新羅征伐の拠点としていた事が見えますね。それぞれの伝承地を見てると、御子を産み、アユを釣ったのは、一旦訶志比宮に戻ってから移動してから行われた行動なのかな?ってかんじですね。

まとめ

 新羅征伐完了後、現在の福岡県周辺で御子を出産したと記されています。後に応神天皇となる御子は、仲哀天皇からみると末子になる訳です。いつ頃まで風習が残っていたのかははっきりとは分かっていませんが、古代日本では家督を継ぐのは「末子相続」だったと言われています。この風習から考えれば、末子として生まれた御子、この段でいえば「宇美」が家督を継ぎ、十五代天皇として即位すると描かれている点におかしい所は見受けられないのですが、宇美が生まれる前に仲哀天皇が崩御していた事が事態を少しやっかいな状態にしてしまうようです。この辺りはこの次に見ていく事にします。

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