祭祀

夏越の大祓(なごしのおおはらえ)

2021年6月27日

大祓とは?

 1年の上半期の最終日にあたる6月30日(6月晦日)は神社では神事である「夏越の大祓」が行われます。

 そもそも、大祓とは何ぞや?

 大祓は「おおはらえ」または「おおはらい」と読みます。

 その意味は、日本各地に鎮座する神社を統括している「神社本庁」のサイトに大祓についての説明が載っていました。それによると・・・

大祓は、我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢れ、そのほか、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としています。

神社本庁 「大祓について」より

とあります。この中にある罪、穢れ、過ちを祓い清める事を「はらえ」と呼びます。そして、六月の晦日と十二月の大晦日に皇居の宮中三殿において天皇陛下によって執り行われる宮中祭祀を「大祓」と呼び、日本国の国民全体の罪、穢れ、過ちを祓い清める神事になります。

 六月晦日に催行される大祓を「夏越の大祓」、十二月大晦日に催行される大給を「年越の大祓」と称しており、日本全国の神社にて同時に催行される神事となっています。

何時から大祓は行われているのか?

 現在の大祓は明治四年(1871年)に宮中三殿において約400年ぶりに祭祀を復興させた「明治天皇」が太政官布告を通じて全国に神社に大祓の祭祀復興を命じられたことが始まりとなっています。1871年の400年前ですので、1471年前後・・・まさに時は戦国時代真っ只中。
 鎌倉時代、室町時代と武家政治が行われるようになると、幕府の統治が順調に行われている時には朝廷にも寄進があり、平安時代から行われている祭祀も何の問題もなく執り行われていたのですが、室町幕府の中期以降、武士同士の内乱(応仁の乱など)が頻発するようになると、幕府の統治は一気に破綻してしまい、朝廷への寄進も中断、さらには京都も戦乱に飲み込まれてれてしまい、朝廷は困窮を極める事に。
 都の朱雀門において執り行われていたという「大祓」の儀式も、京都の戦乱において中断してしまう事に。この応仁の乱から戦国時代の動乱時期は宮中祭祀を取り巻く環境は劣悪を極めたと言っても過言ではなく、かなりの宮中祭祀の中断を余儀なくされるだけではなく、伊勢神宮の式年遷宮が中断を始めとする全国神社の荒廃をまねいてしまっていたといいます。
 安土桃山時代から江戸時代になり戦乱も収まり幕府の統治が安定すると、こうした中断された祭祀などの一部は復興しているそうなのですが、大祓は復興することはなかったのですが、冒頭に書いたように、王政復古を掲げた明治政府・明治天皇によって明治四年に大祓が復興される事になっていきます。

 では、大祓は一体いつ頃から行われてきた祭祀なんでしょうか?大祓の一端を垣間見る事ができる記述が日本最古の歴史書に記載されています。

古事記にも記述されている大祓

 この古くから行われている大祓なんですが、実は古事記中つ巻における「仲哀天皇」の段において大祓が行われた経緯などが書かれた個所があります。

故、未幾久而不聞御琴之音、卽擧火見者、既崩訖。爾驚懼而、坐殯宮、更取國之大奴佐而奴佐二字以音、種種求生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚之罪類、爲國之大祓而、

現代語訳

程なく、御琴の音が聞こえなくなりました。燈火をたいて見奉りますと、(仲哀)天皇は既に崩御なっておりました。そこで大層驚き恐れ入って、御遺体を殯宮にお移し申し上げ、更に国中から大幣を集め、生剝いけはぎ逆剝さかはぎ畔離あはなち溝埋みずうめ屎戸くそへ上通下通婚おやこたわけ馬婚うまたわけ牛婚うしたわけ鶏婚とりたわけ犬婚いぬたわけなどの種々の種類の罪を調べ、国中の大祓を執り行った。

 前後を省略してしまっているて、突然仲哀天皇が崩御なされている場面となってしまっていて、まったく話の内容は分からなくなってしまっています。抜粋すると「仲哀天皇が崩御なさったのは、国中の罪・穢れが原因であるとして、国中の大祓の神事が執り行われた。」となるでしょうか。現在の医療水準などから考えれば、急性心筋梗塞とか診断されそうな状況なんですが、当時では急死はなんらかの罪・穢れによるものであると考えていたのではないか、そしてこの罪・穢れは国中を包み込むとして国中の祓い清める大祓が催行されたのでしょう。

律令時代の大祓

 大宝元年(701年)に制定された日本初の律令(現在の刑法と民法)である『大宝律令』によって正式な宮中の年中行事(宮中祭祀)となり、その施行細則は律令によってさだめらています。延喜五年(905年)に定められた「養老律令」の格式である『延喜式』に大祓の施行細則が定められており、当時の大祓の細則を伺い知る事ができます。
 簡単に言えば「朱雀門前において大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。」というのが大祓だったようです。

大祓詞

 大祓の時に奏上されていたという「大祓詞」は一体どんなものなのか。中断される室町時代までの大祓では朝廷の祭祀を取り仕切っていた中臣氏が執り行っていた事から「中臣祓詞」と呼ばれる大祓詞が使用されていました。
その「中臣祓詞」と呼ばれる大祓詞がこちら

六月晦大祓〔十二月も此に准へ〕

集侍はれる親王 諸王 諸臣 百官人等諸聞食せと宣る
天皇が朝廷に仕奉る 比礼挂くる伴男 手襁挂くる伴男 靫負ふ伴男 剱佩く伴男 伴男の八十伴男を始めて 官官に仕奉る人等の 過犯しけむ雑雑の罪を 今年の六月の晦の大祓に 祓給ひ清給ふ事を 諸聞食せと宣る。高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命以ちて 八百万の神等を 神集に集賜ひ 神議に議賜て 我が皇孫之尊は 豊葦原の水穂の国を 安国と平けく所知食と事依し奉き。如此依し奉し国中に荒振神達をば 神問しに問し賜ひ 神掃に掃賜ひて 語問し磐根樹の立草の垣葉をも語止て 天磐座放ち 天の八重雲を伊頭の千別に千別て 天降依し奉き 如此依さし奉し四方の国中と 大倭日高見之国を安国と定奉て 下津磐根に宮柱太敷立て 高天原に千木高知て 皇御孫之命の美頭の御舎仕奉て 天之御蔭日之御蔭と隠坐て 安国と平けく所知食む国中に成出む 天の益人等が 過犯けむ雑々の罪事は 天津罪と 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 ここだくの罪を 天津罪と法別て 国津罪と 生膚断死膚断 白人胡久美 己が母犯罪己が子犯罪 母と子と犯罪子と母と犯罪 畜犯罪 昆虫の災 高津神の災 高津鳥の災 畜仆し蟲物為罪 ここだくの罪出でむ。如此出ば 天津宮事を以て 大中臣天津金木を本打切末打断て 千座の置座に置足はして 天津菅曾を本苅断末苅切て 八針に取辟て 天津祝詞の太祝詞事を宣れ。如此乃良ば 天津神は天磐門を押披て 天之八重雲を伊頭の千別に千別て所聞食む 国津神は高山乃末短山之末に登坐して 高山の伊穂理短山の伊穂理を撥別て所聞食む。如此所聞食てば 皇御孫之命の朝廷を始て 天下四方国には 罪と云ふ罪は不在と 科戸之風の天之八重雲を吹放事之如く 朝之御霧夕之御霧を朝風夕風の吹掃事之如く 大津辺に居る大船を 舳解放艫解放て大海原に押放事之如く 彼方之繁木が本を焼鎌の敏鎌以て打掃事之如く 遺る罪は不在と 祓賜ひ清賜事を 高山之末短山之末より 佐久那太理に落多支都速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云神大海原に持出なむ 如此持出往ば 荒塩之塩の八百道の八塩道之塩の八百会に坐す速開都比咩と云神 持かか呑てむ 如此かか呑ては 気吹戸に坐す気吹主と云神 根国底之国に気吹放てむ。如此気吹放ては 根国底之国に坐す速佐須良比咩と云神 持さすらひ失てむ。如此失てば 今日より始て罪と云ふ罪は不在と 高天原に耳振立聞物と馬牽立て 今年の六月の晦日の 夕日之降の大祓に 祓給ひ清給ふ事を 諸聞食せと宣る。四国の卜部等 大川道に持退出て祓却と宣る。

 こちらの祓詞については、現存している延喜式第八巻に記載されています。延喜式に興味ある方は、『延喜式』卷八「祝詞」(国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/991103/143)を是非参照してみて下さい。

現在の大祓詞は、明治時代の復興、太平洋戦争の敗戦などを経て、昭和二十三年に神社本庁が例文として示したものが多く使用されています。それがこちら

大祓詞おほはらへのことば

高天原たかまのはら神留かむづます すめらがむつかむ かむみことちて 萬󠄄神よろづのかみたちかむつどへにつどたまひ かむはかりにはかたまひて すめまのみことは 豐葦󠄂とよあしはらの水穗國みづほのくにを 安國やすくに平󠄁たひらけくろし食󠄁せと ことさしまつりき さしまつりし國中くぬちに 荒󠄄あら神等かみたちをば かむはしにはしたまひ 神掃かむはらひにはらたまひて ことひし磐根いはね 樹根きねたち 草󠄂くさかき葉󠄂をもことめて あめ磐座放いはくらはなち あめ八重やへぐもを 伊頭いつ千別ちわきに千別ちわきて 天降あまくださしまつりき さしまつりし四方よも國中くになかと おほやまと高見國だかみのくに安國やすくにさだまつりて した磐根いはねみやばしらふとて 高天原たかまのはら千木ちぎたかりて すめまのみことみづ殿あらかつかまつりて あめかげ かげかくして 安國やすくに平󠄁たひらけくろし食󠄁さむ國中くぬちでむあめ益人ますひとが 過󠄁あやまをかしけむ種種くさぐさ罪事つみごとは あまつみ くにつみ 許許太久ここだくつみでむ でば あま宮事みやごとちて あま金木かなぎもとり すゑちて くら置座おきくららはして あま菅麻󠄁すがそもとち すゑりて 八針やはりきて あま祝詞のりとふと祝詞のりとごと

らば あまかみあめ磐門いはとひらきて あめ八重やへぐも伊頭いつ千別ちわきに千別ちわきて こし食󠄁さむ くにかみ高山たかやますゑ 短山ひきやますゑのぼして 高山たかやま伊褒理いほり 短山ひきやま伊褒理いほりけてこし食󠄁さむ こし食󠄁してば つみつみらじと しなかぜあめ八重やへぐもはなことごとく 朝󠄁あしたぎり ゆふべぎりを 朝󠄁風あさかぜ 夕風ゆふかぜはらことごとく おほ津邊つべ大船おほふねを 舳解へとはなち ともはなちて 大海原おほうなばらはなことごとく 彼方をちかたしげもとを 燒鎌󠄁やきがま鎌󠄁がまちて はらことごとく 遺󠄁のこつみらじと はらたまきよたまことを 高山たかやますゑ 短山ひきやますゑより 佐久那太理さくなだり多岐たぎつ 速󠄁川はやかはおり津比賣つひめかみ 大海原おほうなばらでなむ なば 荒󠄄潮󠄀あらしほ潮󠄀しほ八百道󠄁やほぢ潮󠄀道󠄁しほぢ潮󠄀しほ八百やほあひ速󠄁開はやあき都比賣つひめかみ 加加呑かかのみてむ 加加呑かかのみてば ぶきぶきぬしかみ 根國ねのくに 底國そこのくにはなちてむ はなちてば 根國ねのくに 底國そこのくに速󠄁はや佐須良比賣さすらひめかみ 佐須良さすらうしなひてむ 佐須良さすらうしなひてば つみつみらじと はらたまきよたまことを あまかみ くにかみ 八百やほ萬󠄄よろづの神等共かみたちともに こし食󠄁せとまを

 大祓の神事に参列されると、この大祓詞を宮司が奏上されるかと思います。

茅の輪くぐり

「夏越の大祓」と特徴づける儀式に「茅の輪くぐり」があります。神前に設けられた茅の輪を右回りと8の字を描くように三回くぐって、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うという儀式になります。

2021年、岡崎市上地町に鎮座する「上地八幡宮」の境内に据えられていた「茅の輪」。この茅の輪を左回り、右回り、左回りと三回くぐり、参拝するのが茅の輪くぐりになります。

 茅(かや)が罪、穢れを払ってくれるとされている事から、茅の輪を潜る事で身に着いていた罪・穢れを祓い、きれいな体になるという儀式になるそうです。とある地域ではこの地の輪くぐりで使用されている茅を持ち帰ってしまうという文化があるそうなのです。

まとめ

年に二回、日本国の罪・穢れを祓う神事を「大祓」と呼び、大宝律令にも規定されている神事でもあります。飛鳥時代から続いてきた神事ですが、戦国時代以降、明治三年まで約400年中断していましたが、明治天皇によって復興され現在では宮中祭祀として執り行われています。現在では、六月晦日に行われる大祓を「夏越の大祓」と呼び、全国の神社で催行されています。

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