日本書紀を読む

巻第六 垂仁天皇|埴輪の起原

2025年8月17日

日本書紀とは?

 養老四年(720年)に完成したとする日本最古の正史である「日本書紀」(やまとぶみ・にほんしょき)になります。ほぼ同時期に造られたという「古事記」と何かと対比されがちな傾向にあります。先にも述べましたが、「日本書紀」は正史として国内外に発信すべく造られた書であり、「古事記」は物語調でもあり国内に向けて天皇の正統性を発信する書であり、編纂目的は大きく異なっています。こうして異なった目的で編纂されたこともあり、古事記は物語調という事もあり非常に読みやすい書であるのに対し、日本書紀は年代を追って書く編年体を取っていて正直呼んでも面白くは・・・・。
 同時期に編纂されたこともあり、物語の冒頭から巻末までの範囲はほぼ同じなわけで、古事記と日本書紀を読み比べていくと飛鳥時代から奈良時代にかけての日本のあり様が見えてくるのではないでしょうか。

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埴輪の起原

本文

卅二年秋七月甲戌朔己卯 皇后日葉酢媛命一云 日葉酢根命也薨 臨葬有日焉 天皇詔群卿曰「從死之道 前知不可 今此行之葬 奈之爲何」於是 野見宿禰進曰「夫君王陵墓 埋立生人 是不良也 豈得傳後葉乎 願今將議便事而奏之」
則遣使者 喚上出雲國之土部壹佰人 自領土部等 取埴以造作人・馬及種種物形 獻于天皇曰「自今以後 以是土物更易生人樹於陵墓 爲後葉之法則」天皇 於是大喜之 詔野見宿禰曰「汝之便議 寔洽朕心」則其土物 始立于日葉酢媛命之墓 仍號是土物謂埴輪 亦名立物也
仍下令曰「自今以後 陵墓必樹是土物 無傷人焉」天皇 厚賞野見宿禰之功 亦賜鍛地 卽任土部職 因改本姓謂土部臣 是土部連等 主天皇喪葬之緣也 所謂野見宿禰 是土部連等之始祖也

  • 薨:天皇、国王などの君主は皇后、皇太后などの死亡した意
  • 群卿:天皇に仕える位の高い役人の意
  • 從死之道:亡くなった者に仕えていた人たちが従う事とし「殉死」の意
  • 鍛地:陶器を焼き上げる場所か?

現代語訳

垂仁天皇三十二年秋七月六日、後皇后の日葉酢媛命ひばすひめのみこと(一説には日葉酢根命ひばすねのみことともいう。)が亡くなった。葬るまでは日があったことから天皇は群卿まへつきみたちに「殉死は認める事が出来ない事は前に判明したが、今回の葬はどうするべきか。」と問うた。野見宿禰のみのすくねが前に進み出て「君の陵墓に生きる人を埋めて立たせることは良くない事です。どうしてこの事を後の世に伝える事ができましょうか。今ここで代わりになる事を話し合い奏上致します。」と進言した。
すぐに使者を遣わし出雲国の土師部を百人ほど呼び寄せ、土師に指示し埴土でヒト、ウマや色々な物の形を作り天皇に献上し、「これより後はこの土物を生きたる人々に替えて陵墓に立てる事を決まりとしましょう。」と奏上した。天皇は大層喜び、野見宿禰に「お前の案は私の希望に沿ったものだ。」と言い、その土物を始めて日葉酢媛命の陵墓に立てた。この土物を「埴輪」と名付けた。亦の名を「立物」とも言う。
それから「これより後には、陵墓には必ずこの土物を立て、人を供してはならぬ。」との命が下された。天皇は野見宿禰の功を大いに認め、鍛地かたしところを与え、土師職に任せた。それで本姓を改めて土師臣という。これは土師連が天皇の喪葬を司っている謂れである。つまり野見宿禰は土師連の祖なのである。

登場した神々(人々)

まとめ

「埴輪」の発祥についての記述になるのですが、考古学的には埴輪の起原とはかなり年代がズレている様です。この事から、古墳造営時の人身御供の代替として「埴輪」が誕生したという伝承は日本書記編纂時には皇族の喪葬儀礼を司っていただろう土師氏による創作ではないかとも考えられている様です。ただ、世界各地で行われていた人身御供に対する当時の日本人の意識を知る事ができる重要な記述であることは間違いないかと思います。

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 日本書紀を読んでいくにあったって、原文は漢文で書かれているので非常に読み込むのが困難なので、現代語訳されている本が一冊あると助かるかと思います。当サイトでは、戦前から日本書記の翻訳本として有名な岩波文庫の日本書記を非常に参考にさせて頂いています。

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