日本書紀を読む

巻第六 垂仁天皇|当麻蹶速と野見宿禰

2025年5月24日

日本書紀とは?

 養老四年(720年)に完成したとする日本最古の正史である「日本書紀」(やまとぶみ・にほんしょき)になります。ほぼ同時期に造られたという「古事記」と何かと対比されがちな傾向にあります。先にも述べましたが、「日本書紀」は正史として国内外に発信すべく造られた書であり、「古事記」は物語調でもあり国内に向けて天皇の正統性を発信する書であり、編纂目的は大きく異なっています。こうして異なった目的で編纂されたこともあり、古事記は物語調という事もあり非常に読みやすい書であるのに対し、日本書紀は年代を追って書く編年体を取っていて正直呼んでも面白くは・・・・。
 同時期に編纂されたこともあり、物語の冒頭から巻末までの範囲はほぼ同じなわけで、古事記と日本書紀を読み比べていくと飛鳥時代から奈良時代にかけての日本のあり様が見えてくるのではないでしょうか。

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本文

七年秋七月己巳朔乙亥 左右奏言「當麻邑 有勇悍士 曰當摩蹶速 其爲人也 强力以能毀角申鉤 恆語衆中曰【於四方求之 豈有比我力者乎 何遇强力者而不期死生 頓得爭力焉】」天皇聞之 詔群卿曰「朕聞 當摩蹶速者天下之力士也 若有比此人耶」一臣進言「臣聞 出雲國有勇士 曰野見宿禰 試召是人 欲當于蹶速」卽日 遣倭直祖長尾市 喚野見宿禰 於是 野見宿禰 自出雲至 則當摩蹶速與野見宿禰令捔力 二人相對立 各舉足相蹶 則蹶折當摩蹶速之脇骨 亦蹈折其腰而殺之 故 奪當摩蹶速之地 悉賜野見宿禰 是以 其邑有腰折田之緣也 野見宿禰乃留仕焉

  • 左右:天皇の左右に控える側近の事

現代語訳

垂仁天皇七年秋の七月七日、天皇の側近の者が、
當麻邑たぎまのむらに名を當摩蹶速たきまのけはやという勇猛果敢な者がいるそうで、その物はとても力が強く、角を砕き、鍵型の鉄すらも伸ばしてしまうといい、「四方八方を探しても私に並ぶ力を持ったものはいるだろうか。是非とも力強い者に出会い、生死をかけた力比べをしてみたいものだ。」と言っているそうです。」
と申し上げた。

天皇派これを聞き、群臣に
「當摩蹶速は天下の力持ちであると聞いた。この者に並ぶものはいるか?」
と仰せになった。
一人の臣下が進み出て
「出雲国に野見宿禰のみのすくねという勇人がいると聞いています。この者を呼び寄せて蹶速と戦わせてみるのが良いかと思います」と申し上げたので、倭値の先祖である長尾市を遣わして、野見宿禰を呼び寄せた。野見宿禰は出雲より参上したのである。

当麻蹶速と野見宿禰に力比べをさせた。
二人は向かい合って立ち、互いに足を挙げて蹴り合った。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕だき、さらに彼の腰を踏み抜いて殺した。

天皇派当麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えた。これがその邑に腰折田こしおりだがある由来である。野見宿禰はそのままこの地に留まり、天皇にお仕えした。

登場した人々

  • 當摩蹶速
    • 日本書紀のみに登場。大和国當麻邑に住む力自慢の者。対決した「野見宿禰」と共に相撲の神とされている。
  • 長尾市
    • 日本書紀のみに登場。垂仁天皇の段にて倭大国魂を奉斎する人物とされる。
  • 野見宿禰
    • 対決相手を探していた當摩蹶速と対決させる為に出雲より召喚され、蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏み抜いて勝ち、大和国當麻の土地を与えられた。その後、垂仁天皇の皇后である「日葉酢姫命」の葬儀の時に殉死に代わる埴輪の作成を提案し、土師の姓を与えられた。

まとめ

この段に記されている内容が「相撲の起原」であるとしています。まあ、戦っている内容をみるととても相撲とはかけ離れた内容であるのは確かなのですが、元々はこうした生死を賭けた戦いを立会人の下で行われていたのが、徐々に神事と結びつき、生死を賭ける事が禁止され、土俵が作られ、という時代の流れの中で相撲という形になっていたのではないかと思います。

野見宿禰は、そのまま栖人天皇に仕え、人柱の代わりに「埴輪」の製造を奏上したという事で「土師」の臣姓を賜り、末裔氏族は天皇の葬儀を司ることになっています。

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 日本書紀を読んでいくにあったって、原文は漢文で書かれているので非常に読み込むのが困難なので、現代語訳されている本が一冊あると助かるかと思います。当サイトでは、戦前から日本書記の翻訳本として有名な岩波文庫の日本書記を非常に参考にさせて頂いています。

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