御陵・陵墓

神功皇后:狭城盾列池上陵(五社神古墳)

2025年9月28日

御陵情報

御陵名狭城盾列池上陵
被葬者神功皇后(宮内庁治定)
古墳名五社神古墳
所在地奈良県奈良市山陵町字宮ノ谷
陵 形前方後円墳
規 模全長267m、前方部115m、前方部190m
築造期四世紀末頃
御陵印

神功皇后とは?

 第十四代仲哀天皇の皇后であり、仲哀天皇の崩御された後、摂政として第十五代応神天皇が即位するまで国政を取り仕切った日本神話における”女帝”としてその名が知られています。神懸りなどいろいろな逸話が記紀に書かれていますが、特に、後の応神天皇を身籠ったまま朝鮮半島の新羅に出兵した際、「月延石」を腹に充てて出産を遅らせ、無事新羅を征伐し帰国したという「三韓征伐」の伝承が書かれています。この三韓征伐の日本側の拠点となったのが九州であり、数多くの伝承が現代まで残っており、その伝承の多さから神功皇后が実在したのではという説もあります。

仲哀天皇二年一月仲哀天皇の皇后となる。
仲哀天皇二年二月仲哀天皇による角鹿の笥飯宮への行幸に同行。
仲哀天皇二年六月仲哀天皇による熊襲遠征が開始され、穴門の豊浦津に向かう。
仲哀天皇二年七月豊浦津の海中より如意珠を拾う。
仲哀天皇八年九月熊襲征伐の軍議の中で神懸りとなり神託を与える。
仲哀天皇九年二月神託を無視した仲哀天皇は神の怒りを買い崩御する。
仲哀天皇九年四月誓約を行い三韓征伐の成功を確信する。
仲哀天皇九年十月渡海して新羅国を屈服させる。
仲哀天皇九年十二月筑紫国にて誉田別尊を産む。
神功皇后摂政元年穴門の豊浦津にて仲哀天皇の殯を行う。
神功皇后摂政元年忍熊皇子と戦い勝利する。
神功皇后摂政三年誉田別尊が立太子。
神功皇后摂政四十九年新羅を再征伐。
神功皇后摂政六十二年新羅を再征伐。
神功皇后摂政六十九年崩御

 皇子である誉田別尊が一人前になるまでの摂政就任のはずなんですが、崩御するまでの六十九年も摂政として国政を動かしていたわけです。六十九年も親が頑張ってしまうと子である後の応神天皇の御代は非常に短くなってしまう様な気がするのですが、その辺はやはり日本神話の話なので、応神天皇も名君として君臨していくあたりよく考えられているなと思ってしまいます。このあたりについては当サイトでは古事記・日本書記を順次現代語訳していっているので是非そちらも参照して頂ければと思います。

参拝記

神功皇后陵を囲むように水を湛えた周濠が張り巡らされています。現地に行くとよくわかるのですが、古墳の周囲をまわってみると明らかに周囲の地形とはことなって、水をためるためだけに築堤されている事に気付くかと思います。たぶんですがこの周濠は江戸時代後期に改修されたものなんだとは思います。で、遥拝所も築堤に合わせて周囲に比べると高い位置につくられているので、上記ストリートビューのように遥拝所に向けて石段を有する参道が伸びています。

 遥拝所に向かう参道の入口に立て看板があるので、こちらが神功皇后の陵である事を確認して参道を進んでいきましょう。

 こんな感じで緩やかな石段が続いていきます。自分が想像以上に参道が長いです。

 石段を登りきると、それまでの森の中から一気に視界が広がって、遥拝所の瑞垣が見えてきます。

 遥拝所越しに陵に拝礼。佐紀盾列古墳群の中でも一番大きな古墳になるようで、全国の古墳の中でも屈指の規模を誇っています。仮に埋葬者が本当に神功皇后だとしたら、天皇と同等の権力を持っていた人物だったという事がこの古墳の規模からも見て取れます。

御垣内の中に建てられた御陵を示す石碑。その昔は成務天皇陵と認識されていた過去があるんだとか。ただまあ・・・これだけ隣接していればいくら記紀が残っていたとしても正確に「此処!」って治定するのは難しいでしょうし、他の陵でも実は真の陵はこっちの古墳なのでは?って考えらえている所も何ヶ所も存在するなど、発掘調査が禁止されている事もあってそういった研究は中々進展しないんだとか。「天武天皇陵などは盗掘にあった事で埋葬が確認された」という事例もありますが、飛鳥時代以降の天皇の陵も簡単に治定できないのに、それ以前のまさに日本神話の世界とも言われる時代の天皇にいたっては実在性も疑われており、より治定を難しくしていますね。

御陵を地図で確認

陵墓名狭城盾列池上陵
所在地奈良県奈良市山陵町字宮ノ谷
最寄駅鉄 道:近鉄京都線「平城駅」徒歩6分
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