御陵・陵墓

平城天皇:楊梅陵(市庭古墳)

御陵情報

御陵名楊梅陵
被葬者不詳
第五十一代平城天皇(宮内庁治定)
古墳名市庭古墳
所在地奈良県奈良市佐紀町
陵 形円丘
発掘調査により元は前方後円墳であったことが判明
規 模現存は後円部のみ
復元長253m、前方部154m、後円部147m
築造期五世紀代
御陵印畝傍陵墓監区事務所

平城天皇とは?

平安京に遷都した事でしられている桓武天皇の第一皇子。在位期間は病弱であったこともあり延暦二十五年(806年)~大同四年(809年)の僅か3年で弟である神野親王(嵯峨天皇)に譲位し上皇となる。譲位後は旧都である平城京に移っています。

天皇名平成天皇へいぜいてんのう
第五十代桓武天皇
藤原乙牟漏ふじわらのおとむろ
誕生宝亀五年八月十五日(774年9月25日)
崩御天長元年七月七日(824年8月五日)
在位延暦二十五年三月十七日ー大同四年四月一日
806年4月9日-809年5月18日
享年四十九歳
皇后藤原帯子(贈皇后)
伊勢継子、葛井藤子、紀魚員
皇子女高岳親王(799-865年)
 ・承和二年(835年)、楊梅宮の跡地に超昇寺を創建。
  →超昇寺は後に国人化し、山上八幡神社周辺を治めていた様です。
巨勢親王(不詳-846年)
石上内親王(不詳-846年)
大原内内親王(不詳-863年)伊勢斎宮
阿保親王(792-842年)在原行平・業平の父

平安時代の天皇なのに古墳?

 一般的に、歴代天皇で最後に”古墳”に埋葬されたのは第四十二代文武天皇であるとされています。文武天皇は天武天皇の孫にあたり、在位は697年~707年になります。710年の平城京遷都以前なので藤原京が都だった時代になります。

 対して平城天皇は794年に平安京に遷都した桓武天皇の皇子になり、当然平安時代の天皇であり、この頃には地方でも古墳の築造は行われていなかったようで、古墳を平城天皇の陵墓に治定するのは非常に厳しいとする指摘もあるようです。実際の所、平城天皇陵(楊梅陵)の築造時期は五世紀代であると見られ、築造時期と平成天皇が崩御された年が大きく離れており、平城天皇の為に築造された古墳ではなく、元々あった古墳に平成天皇を埋葬したのでは?とも考えられているそうです。

参拝記

 平城天皇陵は、陵墓に通じる参道入口から左を向くと、平城京の再建された大極殿が大きく見ることができる・・・そんな平城宮のすぐ北側に位置する場所にあります。天皇陵を参拝する時に非常に困るのは駐車場だったりするのですが、平城天皇陵を参拝する際は平城京遺構展示館の駐車場を使用して平城宮巡りもしつつ参拝するのがお勧めです。

佐紀盾列古墳群に属する主な古墳

 御陵から南側に伸びる参道入り食いになります。発掘調査などによって円墳だと思われた平城天皇陵が実はかなり巨大な前方後円墳だったことが解り、まさにこの参道の大半が古墳が築造されていた場所だったそうです。

 天皇陵を参拝していると何気に見ていた案内板なんですが、よくよく考えてみればよく手入れが行われていて、風化などで墨が読めないなんてことは皆無だったなと思い出しました。

 遥拝所からみる平城天皇陵になります。確かにここからでは円墳としか考えられませんね。平城宮だけでなく、平城京全体を建造する時、一体何基の古墳が破壊?されたんでしょうか。

 遥拝所内に設けらえた陵名が記された石柱です。なんかほっこりする書体ですね。

 遥拝所越しに陵に拝礼。平城天皇という天皇名は平城宮の近くに御陵がある事から諡が付けられたのでしょうか?それとも、平安京が出来てからも譲位後は平城京に居していた事に由来するのかわかりませんが、何となく”平城”という名が”平安”に対抗している様に感じてしまいます。

御陵を地図で確認

陵墓名楊梅陵
所在地奈良県奈良市佐紀町
最寄駅鉄 道:近鉄「大和西大寺駅」徒歩23分
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