御陵・陵墓

称徳・考謙天皇:高野陵(佐紀高塚古墳)

2025年9月4日

御陵情報

御陵名高野陵たかののみささぎ
被葬者四十六代孝謙天皇
四十八代称徳天皇(重祚)
古墳名佐紀高塚古墳
所在地奈良県奈良市山陵町(Googlemap
陵 形前方後円墳
規 模全長約127m、後円部約80m、前方部約70m
築造期四世紀代
御陵印畝傍陵墓監区事務所

称徳天皇(孝謙天皇)とは

養老二年(718年)、第四十五代聖武天皇と光明皇后との間に生まれた。即位前は「阿倍内親王」。

  • 天平十年一月三日(738年2月6日)、史上唯一の女性皇太子となる。
  • 天平勝宝元年七月二日(749年8月19日)、聖武天皇の譲位により即位。
  • 天平勝宝九年三月九日(757年4月22日)、大炊王を立太子。
  • 天平宝字二年八月一日(758年9月7日)、大炊王へ皇位を譲位。
  • 天平宝字八年(764年)、藤原仲麻呂の乱
  • 天平宝字八年十月九日(764年11月6日)、淳仁天皇を廃位し、皇位に復帰
  • 神護景雲三年(769年)、宇佐八幡宮神託事件
  • 神護景雲四年八月四日(770年8月28日)、崩御

生涯独身であった事から後継者問題が常に付きまとっていた天皇であった。天皇が病に臥せった時に、病祓いの祈祷を行っていたのが道鏡であり、病が完治した事から天皇は道鏡を信用し、に一度は後継とした淳仁天皇を廃位させ、真偽は不明ですが道鏡を後継にしようとしたという道鏡事件「宇佐八幡宮神託事件」が発生しています。

道鏡と宇佐八幡宮神託事件

物部守屋に通じる弓削氏の出身であることから「弓削道鏡」とも呼ばれる奈良時代の僧侶。天平宝字五年(761年)、病気を患った孝謙天皇の傍らに侍して看病して以来、その寵愛を受け、天平神護元年(765年)には太政大臣、翌二年(766年)に法王にまで上り詰めた。さらに一族も朝廷内で昇進し、僧籍にありながら政務に参加する事に対し藤原氏などから反感があった。

神護景雲三年(769年)、大宰府の祭祀を司る主神である習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につければ、天下は太平になる」という宇佐八幡宮の神託があったと奏上した。この神託に対し、称徳天皇は「八幡神が、法均を宇佐八幡宮に遣わせという夢を見た。」として法均の弟である和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わします。この時、清麻呂に対し道鏡は「いい答えをもたらせば、高い位を与える。」と持ち掛けています。
清麻呂は宇佐八幡宮にて「わが国は開闢以来、君臣の秩序は定まり、臣下を君主とすることはなかった。天の日嗣には必ず皇緒を立てよ。無道の人は早く排除せよ。」という神託を受け、帰京して神託の内容を奏上すると、道鏡は大いに怒り、清麻呂の官職を解き、大隅国に流罪、姉の法均は備後国に流罪となった。

神護景雲四年(770年)、称徳天皇が崩御され、光仁天皇が即位。孝謙天皇の後ろ盾を失った道鏡は官位を剥奪され下野国薬師寺別当として赴任させられ、宝亀三年(772年)に亡くなっています。

皇位を狙ったとされている事から、戦前には「日本三大悪人」の一人に数えられています。その他二名は、平将門と足利尊氏なんですが、戦前は天皇は現人神とも言われ絶対視されていた事から、天皇に何らか危害を与えた有名人として三名が取り上げられたんでしょう。ただ・・・道鏡は天皇に逆らった訳ではないので他の二名とは少し毛色が違う気もしますが。

道鏡出生地

先にも述べていますが、道鏡はその名を「弓削道鏡」と呼ばれており、物部氏一族とされる「弓削氏」出身であると言われています。物部氏は現在の八尾市周辺を本拠とし、物部守屋の時代にはヤマト朝廷の中心的存在となっていた豪族であり、孝謙天皇の看病・・・たぶん病気平癒の祈祷を行っていたと思いますが・・・を行った道鏡はそういった物部氏一族の出身だったという事はさもありなんという感じを受けます。いくら評判が良くてもどこの馬の骨とも分からない様な僧侶を天皇の世話をさせるかといえば・・・現代以上にそういったことに厳しかったであろう社会風土の中、平民が宮廷に入る事すら許されなかったんだろうと容易に想像できるので、宮廷に入る・・ましてや天皇の傍で仕えるなんてなったら僧侶だとしても元々は貴族の身分を持った人物じゃないと許されないのでは?と思う訳です。

弓削神社

 大阪府八尾市に鎮座する弓削神社の境内には、弓削道鏡はこの地の出身であると記された碑があります。この弓削神社の近くには物部守屋の墓所と伝えられている場所もあるなどまさに八尾周辺は物部氏の本拠地である訳で、「弓削氏」は物部一族であり、道鏡は物部氏の血をひく人物であったと伝えられている訳です。

 排仏派である物部守屋と親仏派の蘇我馬子との争いの最終決着地であり、日本史の大きな転換点の一つがこの場所で起こっていたという事に歴史のロマンを感じざるを得ません。

参拝記

 近鉄の主要ターミナル駅の一つ「大和西大寺駅」から駅の東側を南北に走る県道52号線を北に向かって進んでいくと市街地の先に緑に覆われた丘陵が見えてきます。この丘陵が見える辺りが「佐紀盾列古墳群」であり、一番手前にみえる古墳が今回紹介する孝謙天皇陵になります。県道から伸びる参道の先にみえる遥拝所が目印になります。

県道から遥拝所に向けて真っ直ぐと参道が伸びています。周辺には田畑が広がり非常にのどかな感じがするのですが、すぐ近くには大和西大寺駅があったりして、すぐ近くまで都会化の波が押し寄せてきていたります。

 御陵前に据えられている・・・これって何て言うんでしょうか。宮内庁的には重祚してからの"称徳天皇"陵としています。

 天皇陵の前には石碑が据えられているのも特徴の一つですね。ちなみに、「佐紀盾列古墳群」の中だけで孝謙・称徳天皇陵だけ西向きに築造されています。これはどういった意味があるのか・・。まあ、称徳天皇以外はある意味伝説上の皇族の御陵だったりするので、この陵が称徳天皇の真陵だったとしたら時間軸の違いで向きが変わったのでしょうか?

佐紀盾列古墳群

グーグルマップなどを見ていると奈良市に広がる平城宮跡歴史公園の北側に水を湛えた周濠を有する前方後円墳が何基も存在している事がわかるかと思います。令和7年でも平城宮を築くにあたって前方後円墳が壊された跡があったという報道があったのは記憶に新しい所です。この辺りに点在する古墳群を「佐紀盾列古墳群」と言い、ヤマト政権の王墓を多く含む古墳群というのが特徴になります。

佐紀盾列古墳群に属する主な古墳

  前方部に正対するような形で称徳天皇陵の遥拝所が設けられています。

 古墳と言えば「前方後円墳」と想像する方が多いではと思いますが、奈良時代になって古墳の小規模化が進んでいく中、歴代最後の前方後円墳を御陵に治定されているのがこの称徳天皇陵になります。ただ、称徳天皇の時代にはすでに前方後円墳は築造されていなかったそうで、本当に称徳天皇の陵墓なのかは不明で、実際の被葬者は明らかではないそうです。

御陵を地図で確認

陵墓名高野陵
所在地奈良県奈良市山陵町(Googlemap
最寄駅鉄 道:近鉄「大和西大寺駅」徒歩12分
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