
史跡情報
| 史跡名 | 北畠具教 首塚 |
| 所在地 | 三重県松阪市飯高町野々口地内 |
| 文化財指定 | ー |
北畠具教とは?
前回の「北畠具教胴塚」の記事内でも少し詳細を載せていますが、北畠家は律令制度(大宝元年(701年)に制定された大宝律令から律令制度が始まったとされていますが、大化の改新から徐々にその思想が取り入れられて行っている様です、)によって伊勢国に派遣された「国司」になります。で、鎌倉時代になると幕府より各国に守護が置かれ室町時代になると国司の権限が失墜して守護職がその権限を行使していき、国司は名誉職となっていきます。伊勢国にも守護職が幕府より送られていて鎌倉時代には北条家一門が、室町時代になると土岐氏、仁木氏、細川氏といった室町幕府の主要な大名家がその名を連ねますが、以前国司である北畠家は中勢地域を中心にその勢力を保ち続けており、最終的に室町幕府との協議によって守護職も兼ねる事になっていきます。
そして、北畠具教の代に北畠家最大版図となり、近江の六角氏との抗争が裂けられない情勢となっていきますが、そこに織田信長による伊勢国侵攻があり、北畠家は本拠である北畠館・霧山城から松阪の大河内城に本拠を移し織田信長勢との徹底抗戦を行います。が最終的には兵力差がありすぎた事もあり信長との和議を結び、後に織田信雄となる茶筅丸を養子として向かい入れ大河内城を渡し、具教は三瀬館に移っていきます。この時から信長軍に組み入れられる形となったはずなのですが、信長と不仲になった足利義昭による信長包囲網の話に乗って武田信玄と内通するのですが、この動きは信長の知る所となり最終的にほぼ暗殺の様な形で三瀬館において殺害されています。
戦国時代の習わしといっていのかは不明ですが、首級での本人確認が行われていた事から殺害された北畠具教の首級も織田信長の元に送られる手配になっていたと考えられますが、具教に最後まで仕えていた家臣によって首級が奪還され北畠家の菩提寺があった多気に送り届け埋葬しようとしたそうですが、信長軍による追撃が激しかったため、その途中の松阪市飯高町内の山中に埋葬されたと伝えられています。
| 訪問日:2024-8-9 |
訪問記
北畠具教の首塚のある場所には国道166号線から櫛田川を渡った先の市道を進んでいくのですが、よくよく地図をみたら国道166号線は櫛田川に沿って奈良県と三重県を結ぶ国道の様で何度も櫛田川を渡河しているんですね・・。まあ、目印は「道の駅飯高駅」が近いのでまずは道の駅を目指すのがいいかも。・・・まったく話が変わるのですが道の駅 飯高"駅" ・・・道の駅〇〇駅という道の駅の名前は初めて見た気がします。とおもったら近隣の道の駅には「茶倉駅」という名前の道の駅もあるってことは、松阪市の道の駅の名前には”駅”がつくのでしょうかね。

かなりこちらの首塚なんですがかなり地元の方達の"押し”がしっかりしていて、絶対に素通りすることなく山への入口がわかる様になっていました。車の場合全然駐車場がないので、やはり道の駅に車をとめて歩いてくるのがいいかも。

先の入口からはこんな感じの山道が続いています。8月の酷暑の中の山登りは中々辛いものがありますな。

入口の案内板には10分程の道のりだと書いてありましたが、そこまではかからずに目的地である北畠具教の首塚にたどり着くことができました。全体の質感や表面の風化具合から考えても、こちらの首塚は明治期以降に作り直された・・または新たに造られた五輪塔だろうと思われます。基石と思っていた部分がコンクリートだったりするので予想は大きくは間違っていないと思うのですが。

すこし拡大してみると、五輪塔の各部位の名称がまったくわからないのですが、丸い石部分には北畠具教の事が彫られ、その下の基石となっている場所には殉職者の名前が彫られていました。信長の奇策による暗殺に近い殺害劇による具教の死去による北畠家滅亡が現実のものとなっていく中、北畠家忠臣は主人についていくと決断して自刃したのでしょうか。

首塚の所では全く気が付かなかったのですが、写真を改めてみていたら首塚近くになにやら古い五輪塔らしき石造物が何基も並んでいました。さらに写真をみたらロープで囲んでいる様でもしかしたら本来の首塚はこちらの方なのかもしれませんね。
所在地を地図で確認
| 史跡名 | 北畠具教 首塚 |
| 所在地 | 三重県松阪市飯高町野々口地内 |
| 交 通 | 鉄 道: バ ス:三重交通バス 飯南波瀬線「野々口バス停」徒歩5分 |

