旧跡を巡る

倭姫命と神宮と元伊勢

2025年3月7日

 昨年に一身上の都合で三重県に引っ越しをしまして、一気に自分を取り巻く環境が変わってしまいました。それまでは自営業を営んでいたのである程度時間に余裕があったのですが、なんと10年ぶりに会社員に復帰しまして一気に自由時間が減ってしまった感じがしています。自分のライフワークと言っても過言じゃないと思っている社寺&史跡巡りは土地勘の全くない三重県でも時間があまり取れないので頻度はめっちゃ減ってしまいましたが何とか継続しております。で、三重県を巡っていると「元伊勢伝承地」に出会う事が多くなった感じがします。「元伊勢」は愛知県を巡っている時にも出会っていまして、別サイトで紹介していたります。(愛知県一宮市鎮座:酒見神社
 三重県に引っ越しをして「元伊勢」と出会う機会が増えたのは何かの縁という事で、何とか静岡県(遠江国)の式内社巡りで参拝した神社の紹介を完走したので、三重県に点在している「元伊勢伝承地」を巡って紹介していこうかと思います。

そもそも「元伊勢」とは何ぞや?

元伊勢とは、今は神宮の御祭神である天照大御神が伊勢に鎮まる前に祀られたとする伝承が残る場所」・・ざっくりとした説明だとこんな感じでしょうか。ただこれだけでは正直よく分からないのでもう少し詳しく見ていこうと思います。

 現在では天照大御神は三重県伊勢市の五十鈴川近くに鎮座する伊勢神宮の御祭神であると広く知られているかと思います。ちなみに、私たちが普通に使っている「伊勢神宮」というのはあくまでも”通称”であって正式には伊勢という地名を付けず、ただ「神宮」という名称になります。さらに神宮は天照大御神を御祭神とする「皇大神宮」を中心とする”内宮”と豊受大御神を御祭神とする「豊受大神宮」を中心とする”外宮”に分かれています。「元伊勢とは何ぞや?」というテーマは先に述べたように「天照大御神」が一時的とはいえ祀られたと伝承が残る地である事から、ここでは豊受大神宮の御祭神「豊受大御神」については脇に置いておいて話を進めていく事にします。

日本書紀にも記されています。

 邇邇芸命による天孫降臨の時の際に天照大御神は「八咫鏡」を邇邇芸命に授け、「この鏡を天照大御神自身だと思って祀りなさい。」との神勅が下されており、第十代崇神天皇の御代まで八咫鏡は天皇の居所にて祀られていました。これを「同床共殿」と言います。で、日本書紀によると、「崇神天皇五年になると、疫病が蔓延し多くの民が死亡し、翌六年には田畑は荒廃、百姓は流浪し、反乱も続出し国を治める事が厳しくなり、崇神天皇は天神地祇に国に平穏が訪れる様に祈願し続けますが、先に述べましたが天皇の居所に祀られていた「天照大御神」と並べて祀られていた「倭大国魂神」の二柱の神の力が強すぎた為、両神を居所から遷座させた。」と記されています。
 天照大御神は豊鍬入姫命に命じて倭の笠縫邑の磯堅城に神籬を立て祀る事に。もう一柱である倭大国魂神は渟名城入姫に命じて奉斎しようとしますが、渟名城入姫の神が抜け落ちるなどして奉斎を続ける事が出来ませんでした。そして大物主命が倭迹迹日百襲姫命らの夢に現れ「大田田根子」を祭主として大物主神を祀り、「市磯長尾市」を祭主として倭大国魂神を祀れば国は平穏となる。と告げた。

大物主神と倭大国魂神が祀られた場所とは

 大田田根子が祭主となったのは「大物主神」が鎮まった場所とされる三輪山を御神体とする大神神社になるようです。そして、市磯長尾市を祭主として「倭大国魂神」を祀る為に創建されたのが奈良県天理市に鎮座する「大和神社」になります。

大和神社は戦艦大和の艦内神社として知られており、境内には戦艦大和ゆかりの神社碑が建立されています。
 

 天照大御神を祀っていた豊鍬入姫命ですが、垂仁天皇の御代の25年になると垂仁天皇の皇女である「倭姫命」が豊鍬入姫命に変わって天照大御神につき、鎮まる場所を求めて菟田の筱幡→近江国→美濃国→伊勢国へと巡っていきます。

 ちなみに、倭姫命が垂仁天皇より天照大御神が鎮まる場所を探すという勅命を受けた時、5から6歳くらいの幼女だったと考えられています。その年から考えて、勅命を受けた時は倭姫命は垂仁天皇の宮に居していたと考えるのが普通かと思います。この垂仁天皇の宮が纒向珠城宮まきむくたまきのみやになります。日本書記では纒向珠城宮において野見宿禰と当麻蹴速が天皇の前で初めて相撲をとった場所であるとも記されていて、纒向珠城宮伝承地の東には「相撲神社」が建立されています。

そして伊勢国にて天照大御神は倭姫命に「この神風の伊勢国は常世の国からやってくる浪がくりかえしやってくる国です。倭国に近く可怜国なのでこの国に居たいと思う。」と伝え、倭姫命は伊勢国に祠を立て、斎宮を五十鈴川の川上に建てました。これを磯宮と呼びます。

倭姫命の長き遠い旅路

天照大御神が鎮まる場所を探す勅命を受けた「倭姫命」について書かれた史料は

  • 日本書記
  • 皇大神宮儀式帳
  • 倭姫命世紀

の三つになります。この内、一番詳しく書かれているのが「倭姫命世紀」になるのですが、この書が掛かれたのは鎌倉時代に編纂されたとされ、一時期は偽書であるとされていましたが、研究が進むにつれ神宮の古伝承も包摂されていると考えられる様になってきている様です。

 倭姫命は日本書記では1年、倭姫命世紀ではなんと37年も旅した事になっています。天照大御神が鎮まる祠を建立した後に神宮の祭式を整えていったとされているので、まさに一生を天照大御神に捧げた皇女として描かれています。

 倭姫命は旅路の中、天照大御神を祀る祠を訪れた先々で建て奉斎しています。これを”宮”と呼び、二十数ヶ所になります。倭姫命世紀では宮を建てて長いと4年もその場所に留まり奉斎しています。そしてこの各地に建てられたという”宮”の跡地を「元伊勢」と呼んでいます。では、元伊勢伝承地とはどこにあるのでしょうか。倭姫命世紀には下記の”宮”が記されています。

元伊勢伝承地

  • 弥和乃御室嶺上宮
  • 宇多秋宮
  • 佐佐波多宮
  • 隠市守宮
  • 穴穂宮
  • 敢都美恵宮
  • 甲可日雲宮
  • 坂田宮
  • 伊久良河宮
  • 中島宮
  • 桑名野代宮
  • 奈其波志忍山宮
  • 阿佐加藤方片樋宮
  • 飯野高宮
  • 佐佐牟江宮
  • 伊蘓宮
  • 大河之滝原之国
  • 矢田宮
  • 家田々上宮
  • 奈尾之根宮
  • 五十鈴宮

 宮名だけ見てもこれが何処に建てられたのかは正直殆ど分かりません。しかし現代ではこうした伝承地を紹介してくれる書籍などがあるので、こちらを参考にして伝承地をゆっくりですが巡っていこうかと思っています。

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