
史跡概要
| 史跡名 | 阿保頓宮跡 |
| 所在地 | 三重県伊賀市阿保地区 |
阿保頓宮跡とは?
前回紹介した「息速別命墓」と市道を挟んですぐ東側の丘陵上に聖武天皇が東国行幸の際に大雨を避けて滞在されたという「阿保頓宮跡」があります。
続日本紀によると、
| 天平十二年(740年) 十月三十日 | 天皇一行は伊賀国名張郡に到着 |
| 十一月一日 | 伊賀国伊賀郡阿保頓宮に大雨の為、人馬ともども疲労の為留まった。 |
| 十一月二日 | 伊勢国壱志郡の河口頓宮に到着 |
と記されていて、大雨の為阿保に頓宮が築かれたようです。ちなみに、阿保頓宮は斎宮が都と伊勢を往復した際に休息する為に築かれた頓宮のひとつであり、飛鳥時代から南北朝にかけて十七回使われた事が資料で確認できるそうです。
南北朝時代に斎宮が途絶えると頓宮は廃されたと思われますが、その後室町時代末期、戦国時代へと移りかわっていく中、北畠氏の家臣である阿保氏が頓宮跡に阿保城を築いたとされ、慶長十三年(1608年)に廃城されるまでこの地を治める城館として使われていたようで、現在の頓宮跡は周囲が土塁で囲まれている事から頓宮跡の遺構は無く、阿保城の城館跡となっています。
| 城郭名 | 阿保城 |
| 築城時期 | 不明 |
| 歴代城主 | 北畠家臣:阿保氏、筒井家臣:岸田氏 |
| 廃城時期 | 慶長十三年(1608年) |
訪問記
この市道を挟んで左手に今回紹介する「阿保頓宮跡」があり、右手には前回紹介した「息速別命墓」があります。阿保頓宮と息速別命とは直接的な関係はないものの、斎宮が休息のために使用したという頓宮と初代斎宮とされる倭姫命と異母姉弟となり、父である景行天皇よりこの地を与えられた息速別命の間には歴史的な関連を感じざるを得ないかなと思います。今でも国道として整備されてはいますが主要幹線からははずれてしまっている感じがする阿保周辺ですが、往時は大和と伊勢を結ぶ国家としても重要な街道だったはずで、この地を与えられた息速別命も皇族として重要な地位にいた事を示している感じがします。

阿保頓宮跡には誰が設置したのか手作り感満載の看板が掲げられています。看板の「この上」って・・・

写真で見て感じてもらえるのかはわかりませんが、「この上」が示す様にかなりな急坂が続いています。まさに川の氾濫を避けるために丘陵上に設けられていたのが阿保頓宮だったようです。この地の利を生かして戦国時代には土塁が築かれて城館として活用されたのでしょう。

周囲を土塁で囲まれ一ヶ所出入口として使われていたであろう切通・・虎口?が設けられています。その中心には「阿保頓宮跡」を示す石碑が据えられているのですが、とりあえず全景を感じてもらえればと思い、土塁の上から撮影した写真を載せたのですが、現地でも感じたのですがなんか・・・・城館時代に築かれた土塁だとしたらなんか狭くないかって思いませんか?。頓宮の時代は土塁は築かれず、あっても木などで造られた柵程度だった思うので狭さは感じなかったかと思いますが、土塁で視界を遮られると視覚的に圧迫感を感じてしまいます。


この土塁上には北西部と南東部の二ヶ所に嘉永六年(1853年)に建立した息速別命外二神を祭る小祠が鎮座しています。

絶対に狙ったであろう非常に独特な書体で刻まれた三重県が設置さいた「史蹟 阿保頓宮跡」を示す石碑になります。こうした書体の石碑は愛知県を廻っていた頃には見かけた記憶がないのですが、三重県には多いのでしょうか?。

側面に掘られた「三重縣」・・・これまたどうでもいい事ですが、「県」より「縣」の方が重厚感?があって好きなんですが、皆さんはどう思います?
所在地を地図で確認
| 史跡名 | 阿保頓宮跡・阿保城址 |
| 住 所 | 三重県伊賀市阿保地内 |
| 交 通 | 電車:近鉄大阪線「青山町駅」徒歩17分 |