日本書紀を読む

巻第六 垂仁天皇|倭姫命の巡行

日本書紀とは?

 養老四年(720年)に完成したとする日本最古の正史である「日本書紀」(やまとぶみ・にほんしょき)になります。ほぼ同時期に造られたという「古事記」と何かと対比されがちな傾向にあります。先にも述べましたが、「日本書紀」は正史として国内外に発信すべく造られた書であり、「古事記」は物語調でもあり国内に向けて天皇の正統性を発信する書であり、編纂目的は大きく異なっています。こうして異なった目的で編纂されたこともあり、古事記は物語調という事もあり非常に読みやすい書であるのに対し、日本書紀は年代を追って書く編年体を取っていて正直呼んでも面白くは・・・・。
 同時期に編纂されたこともあり、物語の冒頭から巻末までの範囲はほぼ同じなわけで、古事記と日本書紀を読み比べていくと飛鳥時代から奈良時代にかけての日本のあり様が見えてくるのではないでしょうか。

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倭姫命の巡行

本文

三月丁亥朔丙申 離天照大神於豐耜入姫命 託干倭姫命 爰倭姫命求鎭坐大神之處 而詣莵田筱幡「筱此云佐佐」更還之入近江國 東廻美濃到伊勢國 時天照大神誨倭姫命日 是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國 故隨大神教 其祠立於伊勢國 因興齋宮干五十鈴川上 是謂磯宮 則天照大神始自天降之處也
一云。天皇以倭姫命爲御杖 貢奉於天照太神 是以倭姫命以天照太神 鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之 然後隨神誨 取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子 遷干伊勢國渡遇宮 是時倭太神 著穗積臣遠祖大水口宿禰 而誨之曰 太初之時期曰 天照大神 悉治天原 皇御孫尊 専治葦原中國之八十魂神 我親治大地官者 言已訖焉 然先皇御間城天皇 雖祭祀神祇 微細未探其源根 以粗留於枝葉。故其天皇短命也 是以 今汝御孫尊 悔先皇之不及而愼祭 則汝尊壽命延長 復天下太平矣 時天皇聞是言 則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神 即渟名城稚姫命食卜焉 因以命渟名城稚姫命 定神地於穴礒邑祠於大市長岡岬 然是渟名城稚姫命。既身體悉痩弱以不能祭 是以命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣

  • 傍国:宮が置かれた大和国周辺の国の事
  • 御杖:依代の事

現代語訳

(垂仁天皇二十五年)三月十日、天照大御神を豊耜入姫命とよすきいりびめのみことから話し、倭姫命に託された。倭姫命は天照大御神が鎮座するにふさわしい場所を求め、宇陀の篠幡ささはたに向われた。そこから引き返して近江国から美濃国を巡り伊勢国に至った。この時、天照大御神は倭姫命に「伊勢国は常世からの波がくりかえし打ち寄せる傍国かたくにの美しい国である。この国にいたいと思います。」と言われた。そこで倭姫命は天照大御神が望むように伊勢国に祠を建てられた。そして斎宮を五十鈴川の辺に建てた。これを磯宮という。天照大御神が初めて天より降りられた場所である。
またある説によると、(垂仁)天皇は倭姫命を御杖みつえとして天照大御神に仕えさせた。倭姫命は天照大御神を磯城しきの御神木の根元にて祀られた。その後、神のお告げがあり、(垂仁天皇)二十六年十月、伊勢国の渡遇宮わたらいのみやに遷宮された。この時、倭大国魂神が穂積臣の祖である大水ロ宿禰おおみくちのすくねに神懸により「始まりの時に「天照大御神は高天原を治める。そして天照大御神の子孫である皇孫は葦原中国の諸神を治め、私は地主の神を治めるように。」と約束した。」と仰せ事があった。先皇である崇神天皇は祭祀を行ったが、詳しいその根本を探らずに枝葉に留めておられた。その為に天皇の命は短かった。今、汝は先の天皇が及ばなかったところを悔いて祀れば、命は長くなり、天下も太平となろう。」と告げた。天皇はその言葉を聞き、即、中臣連なかとみのむらじの祖である探湯主くかぬしに命じ、誰に大倭大神を祀らせばよいか。を占わせ、淳名城稚姫命ぬなかわかひめのみことの名が占で出た。そして、淳名城稚姫命に命じ、神地として穴磯邑あなしのむらに定め、大市の長岡岬ながおかのさきにお祀りした。しかし、淳名城稚姫命は体が衰弱し、神を祀る事は出来ない状態となってしまった。それで大倭直の祖である長尾市宿祢ながおちのすくねに命じて祀らせた。

登場した神々・人々

  • 天照大御神
  • 倭大国魂神
  • 垂仁天皇
  • 豊耜入姫命
    • 記紀に伝わる第十代崇神天皇の皇女。古事記には「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記。
    • 「日本書記」では崇神天皇六年、国内が情勢不安となったのは天照大御神と倭大国魂神を皇居に祀っているのが原因であると考え、二神を皇居外で祀る為に、豊耜入姫命に天照大御神を倭の笠縫邑に遷座させ磯堅城の神籬を立て祀り、渟名城入姫命に倭大国魂神を祀らせたがやせ細ってしまい奉祀し続ける事が出来なくなったと記されている。
  • 倭姫命
    • 記紀に伝わる第十一代垂仁天皇の皇女。古事記には「倭比売命」と表記。
    • 豊耜入姫命の後を継ぎ、天照大御神の御杖代として神託によって皇大神宮を創建したとされ、伊勢にて天照大御神を祀る斎宮の起原とも伝わる。
  • 大水口宿禰
  • 探湯主
    • 中臣氏の祖とされる。
  • 淳名城稚姫命
    • 記紀に伝わる第十代崇神天皇の皇女。古事記では「沼名木之入日売命」と表記。
    • 「日本書紀」では上記豊耜入姫命と共に皇居で祀られたいた倭大国魂神を祀る祭主に任ぜられるが、髪が抜け落ち体も痩せてしまった為奉祀し続ける事が出来なくなったと記されている。
  • 長尾市宿祢

まとめ

 第十代崇神天皇は国内情勢の悪化の原因が皇居内の居所に天照大御神と倭大国魂神を祀っていた同床共殿が原因であるとして、天照大御神には豊耜入姫命を倭大国魂神には淳名城稚姫命をそれぞれつけて皇居外にて祀る事にした祭政分離が行われています。

 豊耜入姫命から倭姫命に天照大御神を祀る祭主の交替が行われ、伊勢に皇大神宮が建立されたという「倭姫命伝説」が述べられています。ただ、倭姫命世紀に比べると非常にあっさりとした記述にとどまっているので、何故祭主を交代する必要があったのかなどの理由などは全く述べられていませんね。

 別伝内で述べられている内容は崇神天皇の段でも微妙に名前など異なってはいますが、ほぼ同様の伝承が記載されています。この中で、倭大国魂神は「高天原は天照大御神が、葦原中国の八十魂神は天孫である天皇が、我は地主の神をそれぞれ治める。」と述べている事から、皇族の皇祖神である天照大御神を祀る祭主に皇女である豊耜入姫命がつくのは何の問題も生じなかった様ですが、国津神である倭大国魂神を祀る祭主に天津神の系譜である皇女の淳名城稚姫命がついてもうまく祀る事が出来なかった様で、倭国造の系譜である長尾市宿祢が祭主となる事で無事祀る事が出来たと書かれています。この辺りは、出雲国を打ち破り勢力圏を広げたヤマト朝廷ですが、出雲国の豪族達の力を無視する事が出来なかった事を意味している様な気がしています。

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 日本書紀を読んでいくにあったって、原文は漢文で書かれているので非常に読み込むのが困難なので、現代語訳されている本が一冊あると助かるかと思います。当サイトでは、戦前から日本書記の翻訳本として有名な岩波文庫の日本書記を非常に参考にさせて頂いています。

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