皇統譜

尊良親王(後醍醐天皇第一皇子)

2021年7月31日

尊良親王とは?

 明治時代に建立された「建武中興十五社」の一社で、福井県敦賀市にある金ケ崎城址に建立された「金崎宮」の御祭神として祀られたのが、南北朝時代に金ケ崎城にて北朝方と戦い、武運拙く破れ、自害された後醍醐天皇の第一皇子である「尊良親王」になります。

  • 徳寺年間(1306-08年)、生誕?
  • 嘉暦元年(1326年)、元服、中務卿に任ぜられる
  • 元徳三年(1331年)、一品に任ぜられる。以降一品中務卿親王と呼ばれる。
  • 元弘元年(1331年)八月、元弘の乱勃発
    • 後醍醐天皇が京都を脱出し、三種の神器を持って笠置山へ入る。
    • 笠置山が幕府軍に攻め落とされ、後醍醐天皇と共に捕らえられる。
  • 元弘二年(1332年)、土佐に流罪となる。
  • 元弘三年(1333年)、土佐を脱出し、九州にて挙兵。
    • 五月二十二日、新田義貞らが鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府滅亡
    • 五月二十五日、尊良親王を旗頭とする軍勢が鎮西探題を攻め落とす。
    • その後、後醍醐天皇の建武の新政が始まり、京に帰還。
  • 建武二年(1335年)、後醍醐天皇と足利尊氏との間に「建武の乱」が勃発
    • 上将軍として奉じられ、新田義貞率いる尊氏討伐軍が鎌倉を目指すが、敗北
  • 建武三年(1336年)、御醍醐天皇と足方尊氏の間で和議が結ばれ、新田義貞と恒良親王と共に金ケ崎城に入城
  • 建武四年(1337年)、金ケ崎城が足利軍により落城、尊良親王は自害する。

 後醍醐天皇の第一皇子として、天皇の意向に沿って行動している事が年表を見てもわかってきます。ただ、最終的には足方尊氏との間に和議を結んだ御醍醐天皇に対し、新田義貞と共に敦賀の金ケ崎城に入城し足利軍との戦いを続行する道を選ぶなど、最終的には父親に翻弄され、最終的に自害に追い込まれた人物である言えるのかなと思います。

系図

  • 母は、鎌倉時代を代表する和歌の流派「二条流」の歌人である「二条為子」になり、父である後醍醐天皇が即位する前の皇太子妃ですが、皇太子が天皇に即位する前の応長元年(1311年)または正和元年(1312年)に死去しています。
  • 弟は後醍醐天皇第三皇子となる「宗良親王」になります。宗良親王は征夷大将軍として東国を目指していましたが、途中船が難破して遠江に着眼し、井伊谷を主な拠点として北朝と対峙していた皇子になります。井伊谷には宗良親王を御祭神とした「井伊谷宮」が建武中興十五社の一社として建立されています。

二条流出身の母を持つ尊良親王も、非常に和歌に精通されていた人物であるとされています。和歌集に親王の和歌が入選されたり、「一宮百首」が残されていたりします。時代が変わったならば、もっと多くの和歌を世に残されていたかもしれませんね。

尊良親王を祀る神社

  • 金崎宮  福井県敦賀市金ケ崎町一番地四

尊良親王の陵墓

  • 尊良親王陵墓(比定) 京都府京都市左京区南禅寺下河原町
  • 尊良親王御陵墓見込地(伝承) 福井県敦賀市金ヶ崎町

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