
新羅征伐の詔を発する。
仲哀天皇に新羅征伐の神託を与えた神の霊験を改めて感じ取った神功皇后は、この神々を始めとする天神地祇を祀る為、神田を新たに開墾する為に、日本最古の農業用水と言われる「裂田溝」を掘削しています。
橿日宮に戻った神功皇后は、いよいよ海を渡り朝鮮半島の新羅国に攻め入る為に、再び誓約を行った後に新羅に向けて出陣を行う詔を発する為に臣下を集めます。
日本書記を読む
皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰、吾被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水。若有驗者、髮自分爲兩。卽入海洗之、髮自分也。皇后便結分髮、而爲髻。因以、謂群臣曰、夫興師動衆、國之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐。以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣。是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖。然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者、群臣共有功。事不就者、吾獨有罪。既有此意。其共議之。群臣皆曰、皇后爲天下、計所以安宗廟社稷。且罪不及于臣下。頓首奉詔。
- 滄海とは大海という意でありここでは東シナ海をさす。
- 髻とは、古代日本の男子の髪型。左右に分けた髪の先を耳の辺りで輪にして留めたもの。
- 兵甲とは兵士、武器などを指す
- 宗廟社稷とは国家、朝廷などの意
まとめ
九州北部の平定を完了させた神功皇后は、ヤマト朝廷の九州支配の本拠地である橿日宮に帰還します。そして、橿日宮から西に少し進んだ橿日浦において、再び誓約を行っています。
この誓約を行ったという橿日浦は、橿日宮から西に1km程の場所に広がる海岸線で、その沖合500m程の岩礁の上には橿日宮の跡地に建立されたという「香椎宮」の境外社である「御島神社」が鎮座しています。
この橿日浦一帯は1930年代前後より埋め立て工事が行われていて、現在ではその当時を想像する事も非常に難しいくらい景色は一変しています。
この橿日浦一帯には、神功皇后の遺構とされる場所が数多くあるみたいで、御島神社の遥拝所であったという「浜男神社」、浜で誓約を終えた後に休憩され鎧を付けたという「鎧坂」、さらに、新羅征伐に向う時、皇后が冑を付け、無事帰還出来た時に冑を納めたとされる「冑塚」などがあげられています。