御陵

春日宮天皇(志貴皇子):田原西陵(奈良市矢田原町)

御陵情報

御陵名田原西陵
被葬者志貴(施基)皇子(追諡:春日宮御宇天皇)
古墳名
所在地奈良県奈良市矢田原町地内(Googlemap
陵 形円墳
規 模東西38m 南北40m 高さ10m
築造期不明
御陵印

施基(志貴)皇子とは?

天智天皇と越道君伊羅都売との間に生まれた第七皇子。称徳天皇を継ぐ男系皇族が極端に少なかった天武天皇の血脈からではなく、天智天皇の血脈でありながら聖武天皇の皇女である井上内親王を皇后としていた白壁王が即位(第四十九代光仁天皇)すると「春日宮御宇天皇」の追尊を受ける。
叙位や要職への任官記録がない事から皇統が天武天皇系に移った事により天智天皇の皇子であった事から皇位継承から離れ、詠んだ和歌が残っている事から文化の道に進んだ人物であったと考えられる。

        紀橡姫
         ┃ ┏ 難波内親王
         ┣━┫
天智天皇     ┃ ┗ 白壁王(光仁天皇)
  ┣━━━ 施基皇子(志貴皇子)
越道君伊羅都売  ┃ ┏ 春日王
         ┣━┫
天武天皇     ┃ ┗ 湯原王
  ┣━━━ 託基皇女
宍人カジ媛娘

天武天皇八年(679年)吉野の盟約
朱鳥元年(686年)封戸二百戸を授かる
大宝元年(701年)四品に叙せられる
大宝三年(703年)持統天皇の葬儀で造御竃長官を務める
大宝四年(707年)文武天皇の葬儀で殯宮に供奉する
和銅元年(708年)三品に叙せられる
和銅八年(715年)二品に叙せられる
霊亀二年(716年)薨御
宝亀元年(770年)春日宮御宇天皇の追尊を受ける

奈良豆比古神社

神社由緒によると「宝亀二年(771年)、時の天皇「光仁天皇」の御代、前年の宝亀元年に「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた志貴皇子を奈良山春日離宮に祀ったのが創建」とされる神社になります。志貴皇子は光仁天皇の父であり、光仁天皇が父の為に神社創建を勅命したのではないかと思われます。

参拝記

奈良教育大学のキャンパスの南側から山添町に向けて伸びる県道80号線沿いに「春日宮天皇 田原西陵」はあります。正直な所、春日宮天皇というのは聞いたことが無かったので、正直な感想は「誰?」だった訳ですが、「天皇」が付く追尊なんてのもあるんですね。

この地に御陵が築かれたのは、元々この奈良市の田原地区が志貴皇子の所領であった事が関係していると考えられているみたいです。更に、志貴皇子の子であり四十九代光仁天皇の田原東陵もその陵名から想像できるように、同じ奈良市田原地区に築かれている事から、この地に深いつながりがあったのかもしれませんね。

 県道80号線沿いにある御陵入口から御陵に向かって真っすぐ参道が伸びています。御陵までは軽い切通と土橋によって繋がれているのが特徴的です。

 参道を進んでいくと歩道分掘削された切通があり、その先に御陵の参拝所が見えてきます。

 両岸が農耕地となっている場所に真っ直ぐ土橋による参道が伸びています。まさに都市化される前の御陵の周辺はこんな風景が広がっていたんでしょう。

光仁天皇の異母兄弟に奈良豆比古神社の創建に係っているのか御祭神にその名を連ねている「春日王」がいます。Google先生に春日王について尋ねると、春日王は病気療養のためにこの地を訪れていたという説があるそうです。奈良坂周辺はハンセン病の患者が住んでいる場所だったと伝えられているのですが、春日王はハンセン病だったのではないかとか、実はハンセン病だったのは春日王ではなく志貴皇子だったではとう説があって、この地に志貴皇子が住んでいたのはハンセン病の治療の為だったのではとも考えられるみたいです。

御陵を地図で確認

陵墓名田原西陵
所在地奈良県奈良市矢田原町地内(Googlemap
最寄駅鉄 道:
バ ス:

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