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信康山清龍寺(浜松市天竜区二俣町)松平信康霊廟

2025年1月3日

寺院情報

寺院名信康山清龍寺
所在地静岡県浜松市天竜区二俣町二俣一四〇五番地(GoogleMap
宗 派浄土宗鎮西派
創 建天正年中(1573-92年)
御本尊阿弥陀如来
開 山玉誉春應
文化財
霊 場
URL
御朱印
参拝日2021-12-4

御由緒・沿革

 徳川家康の嫡男「松平信康」が今までの通説では武田氏との内通を織田信長から疑われ反逆の咎で切腹を迫られ、徳川家康は家臣から反対意見も根強い中、天正七年(1579年)九月十五日に二俣城内にて切腹を命じた。信康、享年二十一歳。
 信康の遺骸は二俣城と地続きである蜷原の丘で荼毘に付され、小松原長安院常宝寺に葬られた。家康は信康の位牌堂などを建立、行基作と伝わる聖観世音像を寄進し、翌天正八年(1580年)九月、三河国大樹寺十五世呑誉和尚を請じて信康の本葬を営んでいます。天正九年(1581)に家康が當寺を訪れた時、清水が湧き出でるのをみて寺号を清瀧寺に改称、信康の諱を山号とし「信康山長安院清瀧寺」と称した。

  • 時期不詳:小松原長安院建立
  • 天正七年(1579年)九月十五日:松平信康、二俣城内で自害。
    • 遺骸は荼毘に付された後、當寺に埋葬される。
  • 天正七年(1579年):徳川家康、信康の位牌堂など堂宇を建立する。
  • 天正八年(1580年)九月:信康本葬が営まれる。
  • 天正九年(1581年):家康により「信康山長安院清瀧寺」と改称し中興開山する。

 

松平信康とは?

 徳川家康の嫡男であり、母は今川家家臣「関口親永」の娘で今川義元の姪である「築山殿」。徳川家康が未だ今川家への人質として今川義元に仕えていた永禄二年(1559年)三月六日に生まれる。永禄三年におこった「桶狭間の戦い」において今川義元が討たれると徳川家康は岡崎城にて独立を果たすが、築山殿と信康は駿府に滞在したままであり、人質となってしまうが、永禄五年(1562年)の上之郷城の戦いにおいて捕らえた「鵜殿氏長・氏次」との人質交換で岡崎城に移っています。

 永禄十年(1567年)には織田信長の娘「徳姫」と結婚。また家康が浜松城に移ったことにより岡崎城の城代となり、元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となっています。

天正元年(1573年)足助城攻めで初陣
天正三年(1575年)長篠の戦いで徳川家の一手の大将として参軍
天正五年(1577年)遠江国横須賀の戦いでは殿を務める
天正六年(1578年)小山城攻めに参軍し、退却時に殿を務める

天正七年(1579年)徳姫が父信長に十二箇条の手紙を書き、使者を務めた酒井忠次は手紙の内容がすべて事実であると認めた為、信長は家康に信康の切腹を要求したという。八月三日には信康が岡崎城から大浜城に移され、更にその後、遠江国の掘江城、二俣城へと移され、九月十五日に切腹が命じられた。信康の首は舅である信長の元に送られ、その後岡崎の若宮八幡宮に葬られた。遺骸は荼毘に付された後、小松原長安院に葬られた。

信康の首塚

岡崎市朝日町森畔十二番地に鎮座する若宮八幡宮の境内の一角に松平信康の首塚となる五輪塔が安置されています。この若宮八幡宮からほど近い場所には母「築山殿」の首塚がある八柱神社が鎮座しています。

参拝記

 前回紹介した諏訪神社と境内が隣り合う様にあるのが今回紹介する「信康山清瀧寺」になります。清龍寺、諏訪神社が建つ場所には旧二俣町役場の建物を使用した「本田宗一郎ものづくり伝承館」があり、二俣観光スポットのひとつとなっています。令和五年の大河ドラマ「どうする、家康」が放送された時は多くの観光客が訪れたんじゃないかなと思うのですが・・・どうなんですかね。

諏訪神社(浜松市天竜区二俣町)

神社情報 神社名諏訪神社鎮座地静岡県浜松市天竜区二俣町二俣一一一一(Googlemap)御祭神建御名方命創 建不詳社格等神饌幣帛料供進指定村社神名帳ー文化財ー例大祭八月二十二日 境内社神名神社(御祭神 ...

 こちらが二俣旧役場を使用した「本田宗一郎ものづくり伝承館」になります。ある種カリスマともなっている本田宗一郎の育った地に開館しているという事も集客のポイントになっているみたいで、自分が訪れた時もホンダグッズを身にまとった方が大勢訪れていました。

 諏訪神社からも望むことができるというか諏訪神社の境内からが一番よく見る事ができる清瀧寺の井戸櫓になります。武田信玄が二俣城を落城させた時は、二俣城の井戸櫓をすべて破壊して水不足に陥らせたという話がある事から、こんな感じの井戸櫓が作られていたんじゃないのか?と思い浮かべてしまいますね。

山門

 井戸櫓の脇から清瀧寺の境内方面に通じる急坂の参道が伸びています。この急坂を上り切った先に朱塗りの四脚門による山門が設けられています。

家康御手植えの蜜柑(分木)

 駿府城内に植えられた家康御手植えと伝えられる蜜柑の分木が境内に植えられていて、これでもかと実をつけていました。400年前の蜜柑なんで、さぞかし・・・”すっぱい”んでしょうね。

鐘突堂

 清瀧寺の鐘突き堂は本田宗一郎が学生の頃、早弁がしたくて30分ほど早くに鐘を突きまんまと早弁を成功させたという逸話が残っているそうです。その当時、時を告げる「時鐘」は清瀧寺の鐘を使っていたみたいですね。

本堂

 入母屋造瓦葺平入の唐破風の向拝が設けられた本堂になります。本堂の中には清瀧寺が保存している色々な物が展示されています。

松平信康公霊廟

 清瀧寺の墓所の一角に信康廟に通じる階段が設けられています。これだけ武将の霊廟・墓所を前面に出している寺院も少ないかと思います・・。

 石段を登った先には土塀で囲まれている信康霊廟があります。柵には閂がされていてこれ以上先には進めないので、柵越しに参拝させて頂きます。

柵の先すぐ右手に四基の宝篋印塔があり、向かって左から吉良お初・大久保忠世・中根正照・青木吉継の墓になります。吉良お初は信康切腹の際に殉死した武将?小姓?侍従?になります。

 柵の先には朱塗りの門があり、その先に信康の堂塚(墓)があります。

 清瀧寺の墓所を歩いて信康霊廟近くまで行くとこんな感じで土塀越しに信康の堂塚とそれを覆う鞘堂を見る事が出来ます。ネットで色々調べていると明らかに霊廟の土塀の中から撮影したと思われる写真を見かける事があるのですが、もしかしたら閂を外して中に入ることが出来たんでしょうか・・・。閂がかけられている時点で「入ってはダメ」という先入観があって閂を外すなんて思いもよらなかった訳ですが。

地図で所在地を確認

寺院名信康山清瀧寺
所在地静岡県浜松市天竜区二俣町二俣一四〇五番地(GoogleMap
最寄駅電車:遠州浜名湖鉄道「二俣本町駅」徒歩15分
バス:

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