日本書紀を読む

巻第九 神功皇后|迹驚岡の裂田溝

2021年7月18日

迹驚岡の裂田溝

 肥前国松浦縣玉嶋里の川にて、新羅征伐への誓約として年魚(アユ)釣りを行い、見事に釣り上げた神功皇后は、神託を与えた神に神饌を供する為の神田を設ける事としますが・・・。

 誓約を終えると、神功皇后軍はヤマト朝廷の九州での拠点である橿日宮方面に進めていきます。その途中、神功皇后はその周囲の風景を見て新田を設けようと考えます。

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既而皇后、則識神教有驗、更祭祀神祗、躬欲西征。爰定神田而佃之。時引儺河水、欲潤神田、而掘溝。及于迹驚岡、大磐塞之、不得穿溝。皇后召武內宿禰、捧劒鏡令禱祈神祗、而求通溝。則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水。故時人號其溝曰裂田溝也。

  • 驗は霊験という意
  • 佃とは開墾するという意
  • 儺河は現:福岡県筑紫郡那珂川町を流れる「那珂川」とされる。

現代語訳

 (誓約を経て)皇后は、神託には霊験あらたかであることを認識し、より一層天神地祇を祀り、自ら西征(新羅征伐)に赴くことを欲した。

 こうして新田を定め開墾し、儺河(那珂川)の水を引いて神田を潤す為に溝(用水)を掘削しようとしました。迹驚とどろきの岡まで掘り進めた所で、大盤が塞ぎ、これ以上掘り進めることができなくなってしまった。

 神功皇后は建内宿祢を呼び寄せ、剣と鏡を捧げて天鎮地祇に、溝を掘り進める事を祈祷させました。すると、突如落雷があり、塞いでいた岩を砕き、水を通させた。

 故に、当時の人達はこの溝(用水)を裂田溝さくだのうなでと呼んだ。

まとめ

 実はここで登場する「裂田溝」は現存しており、日本最古の農業用水路として疏水百選にも選ばれています。周囲の状況や発掘調査などから掘削されたのは弥生時代であると見られています。仲哀天皇、神功皇后が治めていた時代は、単純に西暦換算すると西暦200から250年辺りになったりします。自分が学生の頃は弥生時代は紀元前3世紀~3世紀あたりと習った記憶があるので、裂田溝が彫られたとする時代と日本書記の時代とが一致している訳ですね。

 裂田神社は、用水を開通させる為の祈祷を行った場所に鎮座していると伝承されていて、裂けた岩も現存しているといいます。

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