
御陵情報
御陵名 | 佐保山東陵 |
被葬者 | 聖武天皇皇后 天平応真仁正皇太后 |
古墳名 | ー |
所在地 | 奈良県奈良市法蓮町北浦地内(Googlemap) |
陵 形 | 円墳 |
規 模 | 不明 |
築造期 | 不明 |
御陵印 | ー |
天平応真仁正皇太后とは
一般的には「光明皇后」の名前のが知られていると思いますが本来の尊号は「天平応真仁正皇太后」になります。藤原不比等の子で皇族以外で初めて皇后となった人物になります。藤原氏が朝廷内で権力を拡大していく最中の人物であり、周囲との政争が絶えなかったと言われています。
大宝元年(701年) | 生誕(父:藤原不比等、母:県犬養橘三千代) |
霊亀二年(716年) | 首皇太子(聖武天皇)のもとに入内 |
養老二年(718年) | 阿部内親王(後の孝謙天皇)を出産 |
養老四年(720年) | 藤原不比等死去 |
神亀元年(724年) | 首皇太子が即位 |
神亀四年(727年) | 基王を出産 |
神亀五年(728年) | 基王死去 |
神亀六年(729年) | 長屋王の変 |
天平元年(729年) | 立后 |
天平三年(731年) | 隅寺(海龍王寺)を創建 |
天平十年(738年) | 阿部内親王が立太子 |
天平勝宝七年(755年) | 聖武天皇崩御 |
天平宝字四年(760年) | 死去 享年六十歳 |
参拝記
佐保川に架かる「法蓮橋」の西側に陵に通じる参道の入口があります。聖武天皇陵となる佐保山南陵と共通の参道入口となっていて、途中から光明皇后墓に通じる参道が分岐する形になっています。聖武天皇陵を参拝する時と同様に、基本的に各陵には参拝者用の駐車場が用意されていないので、車で巡る際は時間貸駐車場を利用するなどの対策が必要です。

聖武天皇陵を示す案内に「聖武天皇皇后 天平応真仁正皇太后 佐保山東陵」と合わせて記載されています。
聖武天皇は天平十三年に国分寺・国分尼寺の建立の詔を発していますが、実は光明皇后の勧めによるものとされ、さらに、廬舎那仏像(大仏)の建立の詔も光明皇后の進言によるもなんだとか。さらには、父である藤原不比等の邸宅があった場所を相続した様で、その邸宅内に建立されたのが海龍王寺であり、法華寺になります。特に法華寺は全国に建立された国分尼寺の総本山的な地位にある寺院になり光明皇后の意向が強く反映されている寺院である証左かなと思います。

これより先は柵が閉じられていて立ち入り禁止となっています。聖武天皇陵の東側に位置していて、戦国時代には多門城の城内に取り込まれてしまっていて今とは地形が異なっていたと思われます。その後、江戸時代を通じて陵墓の復旧工事が行われて現在の地形になった可能性があるかなと思っています。

正面からの参拝はできないので、この角度から石柱を確認。うーん、はっきりと読めません・・・。
光明皇后の母である県犬養三千代は元明天皇の即位に際し橘宿祢の姓を与えられ、「源平藤橘」と呼ばれるまでに反映した氏族の祖になります。藤原鎌足の嫡男とはいえ下級役人に甘んじていた藤原不比等が上級役人として昇進し、さらに娘の藤原宮子を文武天皇の夫人となり、光明皇后が聖武天皇の皇后になれたのは県犬養三千代の力が大きかったのではないかと言われています。いわば県犬養三千代のおかげで奈良時代から平安時代にかけての藤原氏の繁栄があったと言っても過言ではないと思います。

御陵を地図で確認
陵墓名 | 佐保山東陵 |
所在地 | 奈良県奈良市法蓮町北浦地内(Googlemap) |
最寄駅 | 鉄 道: バ ス:奈良交通バス「法蓮仲町」徒歩5分 |