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六所神社(浜松市浜名区宮口)

2025年1月26日

神社情報

神社名六所神社
鎮座地浜松市浜名区宮口一番地(GoogleMap
御祭神底津海祇神
中津海祇神
上津海祇神
底津筒男命
中津筒男命
上津筒男命
創 建不詳
社格等郷社
神名帳延喜式神名帳 遠江国麁玉郡 多賀神社論社
       遠江国麁玉郡 長谷神社論社
       遠江国麁玉郡 若倭神社論社
文化財
例大祭九月十六日
境内社神明宮(御祭神:天照大御神)
春日神社(御祭神:不詳)
若宮八幡宮(御祭神:大雀命)
古池神社(御祭神:厳島姫命)
水神社(御祭神:水象女命)
秋葉神社(御祭神:加具土命)
大山祇神社(御祭神:大山祇命)
稲荷神社(御祭神:稲倉魂命)
池鯉鮒神社(御祭神:鵜葺草葺不合命)
URL
御朱印
参拝日:2032-12-4

御由緒

三代格式」の中で唯一完全な状態で現存している「延喜式」の巻九・巻十は全国に鎮座する当時繁栄していたとされる神社を記載したという「神名帳」になっています。通称「延喜式神名帳」に記載されている神社を「式内社」と呼ぶのですが、今回紹介する「六所神社」は延喜式内社の論社となっています。

延喜式内社とは?

平安時代中期頃まで日本は「律令制度」によって国家運営が行われていました。

そもそも、この律令制度とはなんぞや?

飛鳥時代から平安時代中期頃まで日本の統治体制になります。「律(現在の刑法)」と「令(現在の民法)」によって国家運営を行う制度なので「律令制度」と呼ぶわけです。こういった規則というのは時代によって変わっていくのが一般的ですが、どうやら「律」と「令」は頻繁に改正するものではないらしく、その辺から考えると現在でいう所の「日本国憲法」に相当するのかなと思います。このため、時代に即した統治をおこなう為に作らるのが、「(現在の法令)」「(施行規則)」によって構成された「格式」になる訳です。こちらは何度か改正されている様なので、現在の「法律」に相当する物だと思います。

天平宝字元年(757年)に施行された「養老律令」の改訂版施工規則として作られたのが康保四年(967年)に施行された「延喜式」になります。延喜式は全五十巻からなっていて、一巻~十巻が神祇官について、十一巻~四十巻が太政官八省関係、四十一巻~四十九巻が宮司関係、五十巻が雑則となっています。このうち、九巻と十巻が冒頭にも述べている全国の神社が記載されている「神名帳」になります。

この事から、式内社とは、「日本の政府に認められた神社」であるという事ができるかと思います。

ちなみに、太政官八省の記述よりも朝廷の祭式を司る神祇官についての記述が先に来ている所を見ると、神祇官は太政官より上位であったことが分かります。

 延喜式神名帳に記載されている「遠江国麁玉郡 多賀神社 長谷神社 若倭神社」の三社の論社となっている六所神社なんですが、創建は不詳ですがあるが千百年前からこの地に祀られており、御祭神は底津海祇神・中津海祇神・上津海祇神・底津筒男命・中津筒男命・上津筒男命であるとしています。

 静岡県神社志を読む限り江戸時代以前の社歴についてはよくわかっていないとなっていますが、

  • 明徳年間(1390年)に修造
  • 元和三年(1617年)に修復
  • 安永八年(1780年)に修復

 棟札が残っている様で、少なくとも室町時代前期にはこの地に鎮座していた事がわかります。
 遠江国式内社摘考とう書物に、「多賀神社長谷神社、若倭神社、右三社は、宮ロ村にある六所大明神に、右の三社を摂すといへる説あれど、其証を得ざれば信せられす。」と記載されている事から三社の延喜式内社の論社となっている様ですが、そのいずれも確証が低いとされている感じです。

麁玉郡式内社について

 延喜式神名帳に記載されている「麁玉郡」の神社は、於呂神社、多賀神社、長谷神社、若倭神社の四社になります。
 この四社に対して、式内社伝承社は、

  • 於呂神社 浜松市浜名区於呂三五二六番地
  • 於呂神社 浜松市浜名区道本二一〇番地
  • 高根神社 浜松市浜名区尾野二八五○番地
  • 六所神社 浜松市浜名区宮口一番地
  • 六所神社 浜松市浜名区堀谷四九九番地二号
  • 春日神社 浜松市中央区笠井町一三四八番地一号

の六社となっています。四社の式内社のいずれも比定社はなく、伝承社六社がそれぞれ論社となっているのがある意味特徴かと思います。

「於呂神社」の論社が浜名区於呂鎮座の於呂神社(1)と浜名区道本鎮座の於呂神社(2)であり、「多賀神社」の論社が高根神社(3)と浜名区宮口鎮座の六所神社(4)であり、「長谷神社」の論社が浜名区宮口鎮座の六所神社(4)と浜名区堀谷鎮座の六所神社(5)であり、「若倭神社」の論社が中央区笠井鎮座の春日神社(6)と浜名区宮口鎮座の六所神社(4)になります。

社傳によれば式内麁玉郡多賀神社これなりと言う。元六所大明神と称し、慶安二年より社歴判然となる。除地五斗八升。明治六年六月郷社に列せられ、明治四十年九月十三日神饌幣帛料供進社に指定せらる。

「静岡県神社志」より

御祭神

 六所神社の御祭神は伊邪那岐命が黄泉の国から逃げ帰ってきてから筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて禊を行った際に水の中で体を濯いだ時に化生した六柱の神々となっています。

  • 底津海祇神
  • 中津海祇神
  • 上津海祇神
  • 底津筒男命
  • 中津筒男命
  • 上津筒男命

綿津見三神と住吉三神

古事記では、伊邪那岐命が水に潜って体を濯いだ時に化生された神としていて、
「水の底で身をすすいだ時に底津綿津見神と底箇之男命が生まれ、水の中ほどで身をすすいだ時に中津綿津見神と中箇之男命が生まれ、水の表面で身をすすいだ時に上津綿津見神、上箇之男命が生まれた。」と書かれています。さらに古事記には

  • 三柱の綿津見神は阿曇連の祖神である。
  • 三柱の筒之男命は住吉三神である。

とも併せて書かれています。

 この綿津見三神と住吉三神は生まれた時が同じであることからか同一神で、「元々九州玄界灘などで祀られていた海津見三神ですが、後にヤマト朝廷に繋がる古代王朝が九州から畿内に東遷していく中で重要な役割(海上交通の安全祈願か?)を担ったのが住吉三神であり、九州にて祀り続けられたのが綿津見三神である。」という説もあるそうです。

 両三神とも、「海の神」として祀られており、綿津見神は「山幸彦海幸彦伝承」で、筒之男命は仲哀天皇(神功皇后)の中で登場しています。日本は島国で四方が海に囲まれている事もあり、海を鎮める神の存在は非常に大きかったと考えられ、こうした海の神は全国で祀られていたが、古代王朝、ヤマト朝廷が勢力を伸ばしていく中でこの両三神に纏まっていったのではないかと考えています。ちなみに、海の女神といえば宗像三神であり、海の神は三神に分かれている所も特徴ではないでしょうか。

六所神社が鎮座する場所を地図で見てもかなり海から離れている様に思えます。古代日本は現在よりも水面が高かったとも言われているのでもしかしたら浜名湖は海の一部でありもう少し内陸まで海が迫っていた事も考えられ、そうなるとこの遠州灘の海上交通を祈願してこの地に海の神である綿津見三神と住吉三神を勧請したのでしょうね。

参拝記

 「高根神社」から国道362号線に戻ろうと思った時、明かに鎮守の杜なんじゃないか?と感じさせる木々の茂みが見えたのでそちらに車を向けると舗装された道路の両脇に灯籠が据えられている六所神社の参道が見えたので、急遽参拝する事に。後から由緒などを調べるとこちらも延喜式内社の論社という事でこういった何となくの勘も馬鹿にならないなと思ったり・・(大概は外れるんですけどね。)

境内入口

 六所神社の境内は少し変わっていて、一般共用されている参道が境内の南側を東西に走っていて、その参道に沿うような形で境内が設けられている感じです。

 参道に沿うような形で石灯籠、扁額が掲げられた石造靖国鳥居が据えられた境内入口になります。参道に沿って瑞垣などが設けられていない事があって非常に開放的な印象を受ける境内になります。

手水舎

 木造銅板葺き四本柱タイプの手水舎になります。屋根部分が非常に軽い印象を受ける造りになります。

狛犬

 昭和三十四年生まれの狛犬一対になります。徐々に装飾がゴテゴテし始めた頃のお姿になるかと思います。

社殿

 切妻造瓦葺平入の高覧が設けられた濡れ縁のある拝殿を有する社殿になります。本殿部分は鞘堂で覆われています。その脇にある妻入りの建物は境内社の相殿の様です。

興覚寺後古墳

 浜松市指定史跡となっている興覚寺後古墳が六所神社の参道脇にあります。
 全長33mの前方後円墳で西向きに墳丘が設けられ、後円部分に横穴式石室があって、築造時期は六世紀前半ではないかと推定されているそうです。

 ここの古墳も石室内に入ろうと思えば特に柵などが設けられていないので入る事できそうですが、暗所は怖いですので・・・絶対に入りたくないですね。

地図で鎮座地を確認

神社名六所神社
鎮座地浜松市浜名区宮口一番地(GoogleMap
最寄駅天竜浜名湖鉄道「宮口駅」徒歩9分

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