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於呂神社(浜松市浜名区於呂)延喜式内社

2025年1月11日

神社情報

神社名於呂神社
鎮座地静岡県浜松市浜名区於呂三五二六番地
御祭神天津日高日子穗穗出見命
創 建不詳
社格等郷社
神名帳延喜式神名帳:遠江国麁玉郡 於呂神社
文化財
例大祭八月二十八日に一番近い土曜日
境内社走湯神社(御祭神:正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)
津島神社(御祭神:建速須佐之男命)
山神社(御祭神:大山咋之命)
春野神社(御祭神:不詳)
天白神社(御祭神:不詳)
若宮八幡宮(御祭神:仁徳天皇)
神明神社(御祭神:天照大御神)
市姫神社(御祭神:市杵島姫命)
神明神社(御祭神:豊受姫大神)
八幡宮(御祭神:誉田別尊)
白山社(御祭神:白山彦大神/白山姫大神)
金山神社(御祭神:金山彦神/金山姫神)
秋葉神社(御祭神:火之加具土神)
稲荷社(御祭神:宇迦之魂之神)
URL
御朱印不明
参拝日:2021-12-4

御由緒

三代格式」の中で唯一完全な状態で現存している「延喜式」の巻九・巻十は全国に鎮座する当時繁栄していたとされる神社を記載したという「神名帳」になっています。通称「延喜式神名帳」に記載されている神社を「式内社」と呼ぶのですが、今回紹介する「於呂神社」は延喜式内社の論社となっています。

延喜式内社とは?

平安時代中期頃まで日本は「律令制度」によって国家運営が行われていました。

そもそも、この律令制度とはなんぞや?

飛鳥時代から平安時代中期頃まで日本の統治体制になります。「律(現在の刑法)」と「令(現在の民法)」によって国家運営を行う制度なので「律令制度」と呼ぶわけです。こういった規則というのは時代によって変わっていくのが一般的ですが、どうやら「律」と「令」は頻繁に改正するものではないらしく、その辺から考えると現在でいう所の「日本国憲法」に相当するのかなと思います。このため、時代に即した統治をおこなう為に作らるのが、「(現在の法令)」「(施行規則)」によって構成された「格式」になる訳です。こちらは何度か改正されている様なので、現在の「法律」に相当する物だと思います。

天平宝字元年(757年)に施行された「養老律令」の改訂版施工規則として作られたのが康保四年(967年)に施行された「延喜式」になります。延喜式は全五十巻からなっていて、一巻~十巻が神祇官について、十一巻~四十巻が太政官八省関係、四十一巻~四十九巻が宮司関係、五十巻が雑則となっています。このうち、九巻と十巻が冒頭にも述べている全国の神社が記載されている「神名帳」になります。

この事から、式内社とは、「日本の政府に認められた神社」であるという事ができるかと思います。

ちなみに、太政官八省の記述よりも朝廷の祭式を司る神祇官についての記述が先に来ている所を見ると、神祇官は太政官より上位であったことが分かります。

麁玉郡式内社について

 延喜式神名帳に記載されている「麁玉郡」の神社は、於呂神社、多賀神社、長谷神社、若倭神社の四社になります。
 この四社に対して、式内社伝承社は、

  • 於呂神社 浜松市浜名区於呂三五二六番地
  • 於呂神社 浜松市浜名区道本二一〇番地
  • 高根神社 浜松市浜名区尾野二八五○番地
  • 六所神社 浜松市浜名区宮口一番地
  • 六所神社 浜松市浜名区堀谷四九九番地二号
  • 春日神社 浜松市中央区笠井町一三四八番地一号

の六社となっています。四社の式内社のいずれも比定社はなく、伝承社六社がそれぞれ論社となっているのがある意味特徴かと思います。

「於呂神社」の論社が浜名区於呂鎮座の於呂神社(1)と浜名区道本鎮座の於呂神社(2)であり、「多賀神社」の論社が高根神社(3)と浜名区宮口鎮座の六所神社(4)であり、「長谷神社」の論社が浜名区宮口鎮座の六所神社(4)と浜名区堀谷鎮座の六所神社(5)であり、「若倭神社」の論社が中央区笠井鎮座の春日神社(6)と浜名区宮口鎮座の六所神社(4)になります。

 創建、由緒等は不詳となっていますが、延喜式神名帳に記されている遠江国麁玉郡四座の内「於呂神社」は当社であると伝わっているという。
 江戸幕府からは遠江国鎮守として御免勧を許可され、営繕、再建費用を郡中に勧請する事が許され、朱印高十石七斗の社領も寄進されたという。
 明治五年三月、郷社に列格。明治四十年一月、神饌幣帛料供進指定社となる。

御祭神

  • 天津日高日子穗穗出見命

天津日高日子穗穗出見命とは

天津日高日子穗穗出見命あまつひこひこほほでみのみことは初代神武天皇の祖父(皇祖神)であるとして「古事記」・「日本書紀」などにその名が登場し、「山幸彦」の別称でよく知られている神になります。古事記では「天津日高日子穂穂手見命/火遠理命」、日本書紀では「彦火火出見尊/火折尊」という名で登場しています。
父は「日子番能邇邇芸命」
母は「木花之佐久夜毘売」

伝承

兄の火照命は「釣針」、弟の火遠理命は「弓矢」を生まれもって誕生しており、兄は「海幸彦」、弟は「海幸彦」と呼ばれた。ある日兄弟はお互いの釣針と弓矢を交換して猟(漁)に出かけたがうまく狩る事が出来なかったので戻す事にしたが山幸彦は釣針を無くしてしまい、激怒した兄は代わりの釣針を持ってきても許すことがなかった。こまった山幸彦は「塩土老翁」と出会い海神の元に送ってもらい、そこで海神の娘「豊玉姫」と出会った。経緯を聞いた豊玉姫は父である海神に相談し宮に招き入れ、大小の魚達を集め問いただすと赤女(鯛)が口の中が痛いという事が口の中を探すと釣針が見付かったが、海神は釣り針を山幸彦に渡さず、豊玉姫を娶らせて海に留めようとした。三年が経過し地上に戻る事になった山幸彦に豊玉姫は妊娠している事を告げ、海神は身を守る呪文と玉を授けた。地上に戻った山幸彦は未だ怒りが収まっていなかった海幸彦を屈服させ、海幸彦は山幸彦への恭順を誓った。そして豊玉姫は陸にやってきて絶対に中を覗かない様に言って産屋に籠った。しかし我慢できなかった山幸彦が中を覗くと豊玉姫は龍に姿を変えており、正体を見られた豊玉姫は恥じて子を残して海に去ってしまった。この子が「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」になります。御子を養育する為に妹である「玉依姫」を遣わした。天津日高日子穗穗出見命は玉依姫を后として後の神武天皇となる「神倭磐余彦尊」をもうけています。

天津日高日子穗穗出見命の系譜


 木花之佐久夜毘売 ━┳━ 日子番能邇邇芸命     綿津見大神
     ┏━━━━━╋━━━━━┓        ┏━━┻━━┓
    火照命  火須勢理命  火遠理命 ━┳━ 豊玉姫    ┃
                      ┃         ┃
                   鸕鷀草葺不合尊 ━┳━ 豊依姫
                            ┃
                          神倭磐余彦尊

参拝記

 天竜浜名湖鉄道と遠州鉄道の乗り換え駅である「西鹿島駅」から南に進んだ場所に今回参拝する於呂神社は鎮座しています。天竜浜名湖鉄道と遠州鉄道の路線に挟まれていて、さらに境内の南側には東西に走る新東名高速道路の陸橋があるという、まさに線路と高速のデルタ帯の真ん中に現在の於呂神社は鎮座しています。

 境内の直ぐ隣に天竜浜名湖鉄道の線路が通っています。鉄道は勾配に弱い事もあって起伏のある地形だとこんな感じで切通しや盛土で極力平坦な線形を維持する必要があったりするので、比較的高台に鎮座している事が多い(と個人的に思っているのですが・・。)神社の近くに線路が引かれている場合、こんな感じで切通しで眼下を鉄道が走っている所が多いかなと思います。 

参拝した時は全く存じてなかったのですが、於呂神社の周辺には於呂神社古墳群があるようで、上記のストリートビューで写っている墳丘も古墳群の一基なんだそうです。

境内入口

 扁額の掲げられた靖国鳥居と幟立石が据えられた境内入口になっています。社伝にむかって木々の中を真っ直ぐ参道が伸びているのが気持ちよく感じられます。

 境内入口から少し離れた場所に式内於呂神社を掘られた社号標が据えられています。白飛びしてしまって読みにくく申し訳ないです。

手水舎

 銅板葺き木造四本柱タイプの手水舎になります。

社殿

 入母屋造瓦葺平入の唐破風の向拝が設けらえた拝殿を有する社殿になります。ここ於呂神社の社殿は拝殿と本殿の間に神門が設けられていて露天の祭場と瑞垣で囲まれた本殿という造りになっています。

 本殿の屋根と瑞垣の屋根が赤色(朱色?)で統一されている点も他の神社では中々見かけない特徴になっているかと思います。

境内社合殿

 神社情報の境内社の欄で数多くの社名が載っていたと思いますが、その境内社は合殿という形で一つの社で祀られています。そういえばこちらの屋根も赤色ですね。

地図で鎮座地を確認

神社名於呂神社
鎮座地静岡県浜松市浜名区於呂三五二六番地(GoogleMap)
最寄駅電車:天竜浜名湖鉄道・遠州鉄道「西鹿島駅」徒歩分
バス:

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