日本書紀を読む

巻第六 垂仁天皇|任那・新羅の抗争

2025年3月15日

日本書紀とは?

 養老四年(720年)に完成したとする日本最古の正史である「日本書紀」(やまとぶみ・にほんしょき)になります。ほぼ同時期に造られたという「古事記」と何かと対比されがちな傾向にあります。先にも述べましたが、「日本書紀」は正史として国内外に発信すべく造られた書であり、「古事記」は物語調でもあり国内に向けて天皇の正統性を発信する書であり、編纂目的は大きく異なっています。こうして異なった目的で編纂されたこともあり、古事記は物語調という事もあり非常に読みやすい書であるのに対し、日本書紀は年代を追って書く編年体を取っていて正直呼んでも面白くは・・・・。
 同時期に編纂されたこともあり、物語の冒頭から巻末までの範囲はほぼ同じなわけで、古事記と日本書紀を読み比べていくと飛鳥時代から奈良時代にかけての日本のあり様が見えてくるのではないでしょうか。

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任那と新羅

本文

冬十月 更都於纏向 是謂珠城宮也 是歲 任那人蘇那曷叱智請之 欲歸于国 蓋先皇之世來朝未還歟 故敦賞蘇那曷叱智 仍齎赤絹一百匹 賜任那王 然 新羅人遮之於道而奪焉 其二国之怨 始起於是時也
一云御間城天皇之世 額有角人 乘一船泊于越國笥飯浦 故號其處曰角鹿也 問之曰 何國人也 對曰 意富加羅國王之子 名都怒我阿羅斯等 亦名曰于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇 以歸化之 到于穴門時 其國有人 名伊都都比古 謂臣曰 吾則是國王也 除吾復無二王 故勿往他處 然臣究見其爲人 必知非王也 既更還之 不知道路留連嶋浦 自北海廻之 經出雲國至於此間也 是時遇天皇崩 便留之 仕活目天皇逮于三年 天皇問都怒我阿羅斯等曰 欲歸汝國耶 對諮 甚望也 天皇詔阿羅斯等曰 汝不迷道必速詣之 遇先皇而仕歟 是以改汝本國名 追負御間城天皇御名 便爲汝國名 仍以赤織絹給阿羅斯等 返于本土 故號其國謂彌摩那國 其是之縁也 於是 阿羅斯等以所給赤絹藏于己國郡府 新羅人聞之 起兵至之 皆奪其赤絹 是二國相怨之始也

一云 初都怒我阿羅斯等 有國之時 黄牛負田器 將往田舍 黄牛忽失 則尋迹覓之 跡留一郡家中 時有一老夫曰 汝所求牛者 入此郡家中 然郡公等曰 由牛所負物而推之 必設殺食 若其主覓至 則以物償耳 即殺食也 若問牛直欲得何物 莫望財物 便欲得郡内祭神云爾 俄而郡公等到之曰 牛直欲得何物 對如老父之教 其所祭神 是白石也。乃以白石 授牛主 因以將來置于寢中 其神石化美麗童女 於是。阿羅斯等大歡之欲合 然阿羅斯等去他處之間 童女忽失也 阿羅斯等大驚之 問己婦曰 童女何處去矣 對曰 向東方 則尋追求 遂遠浮海以入日本國 所求童女者 詣于難波爲比賣語曾社神 且至豐國國前郡 復爲比賣語曾社神 並二處見祭焉

  • 郡家:律令制度における役所の事
  • 郡公:役人の事

現代語訳

この年(垂仁天皇二年)、任那人である蘇那曷叱智そなかしちが「国に帰りたい。」と嘆願してきました。先皇の時にこの国を訪れてからまだ帰国していなかった様で、蘇那曷叱智にたくさんの褒美を与えました。赤絹を一百匹持たせて任那の王に遣わせました。しかし、新羅人がこの帰国の道中に奪い去ってしまいました。この時の二国の恨みはこの時初めて起こりました。

一説では、垂仁天皇の御代に額に角を生やした人が一艘の船に乗って越国の笱飯の浦けひのうらに流れ着いた。それでこの地を角鹿つぬがと呼ぶ。「何処の国の者か?」と尋ねると、「大加羅国おおからのくにの王子、名は都怒我阿羅斯等つぬがあらしと、または于斯岐阿利叱智干岐うしきありしちかんきという。日本に聖王が見えると聞いてやってきました。穴門あなとに着いた時、伊都都比古いつつひこという人がいました。彼は私の臣に「私はこの国の王である。私をおいてふたつの王はいない。故に他に行く事はゆるさない。」と言いました。しかし、臣が彼の人となりを見るにつれ決して王ではないと確信し、その国から脱出しました。しかし道が解らず、島浦を彷徨い進み、北の海から廻って出雲国を経てここにたどり着きました。」と述べた。
この時、天皇(崇神天皇)の崩御があった。しかし、彼は日本に留まり垂仁天皇に仕え、三年が経過した。垂仁天皇は都怒我阿羅斯等に「国に帰りたいか?」と問うと、彼は「帰りたいと思っています。」と答えた。そして天皇は「お前が道に迷わず早くここに着いていたら、先皇に会えていただろう。だからお前の国名を先皇である「御間城天皇みまきすめらみこと」の御名にちなんだ名前に改称しろ。」と命じ、赤織の絹を阿羅斯等あらしとに与え、本国に返しました。そして、その国の名前を「彌摩那国みまなのくに」と呼ぶのはこうした由縁があるからです。阿羅斯等は賜った赤絹を国の蔵に納めていましたが、新羅の人がそれを知り、兵を率いてすべての赤絹を奪ってしまった。これを機に両国の争いが始まった。

更に別の説では、都怒我阿羅斯等つぬがあらしとがまだ国(任那国)に居た時に黄牛あめうしに農具を負わせて田舎に行った時、急に黄牛がいなくなってしまい跡を追いかけたそう。すると足跡がある村の役所の中に続いていた。
 この時、一人の老人が「貴方が探している牛はこの役所の中に入った。役人達は、「この牛が背負っている荷からこの牛を食べてしまっても問題ないだろう。もしこの牛の持ち主が現れたら何か物で弁償すればいい。」と言い、牛を殺して食べてしまった。」と言い、そして、「もし役人に「牛の代わりに何を望む?」と尋ねられたら財物を望まずに「村で祀っている神を得たい。」と答えなさい。」と教えてくれた。
 そして、しばらくして役人がやってきて「牛の代わりに何を望む?」と言ってきたので、先ほど老人に教えてもらった様に答えた。この村で祀っている神は「白い石」であった。そして、この白い石を牛の代わりとした。
 この白い石を持ち帰り、寝室に置いておくと、この白い石は美しい乙女となった。阿羅斯等は大変喜び、交ろうとしたが、阿羅斯等が少し離れた隙に乙女は消えてしまった。阿羅斯等は大変驚き、妻に「乙女はどこに行った?」と尋ねた。妻は「東方に向かいました。」と答えた。
阿羅斯等は乙女を追っていくうちに海を越えて日本国に入った。追い求めた乙女は難波にて比売語曽社神ひめごそのやしろのかみとなっていた。また、豊国の国前郡で比売語曽社神ひめごそのやしろのかみとなり、二ヶ所で祀られていた。

登場した人々

  • 活目入彦五十狹茅天皇(第十一代垂仁天皇)
  • 蘇那曷叱智
    • 都怒我阿羅斯等、于斯岐阿利叱智干岐
    • 崇神天皇六十五年七月に任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇二年に帰国。日本書記における蘇那曷叱智の記述は倭国と加耶の交易(渡来)時期の始まりを示すものであり、朝鮮半島における加耶と新羅の争いの始まりを伝えていると言われています。
  • 御間城入彦五十瓊殖天皇(第十代崇神天皇)

まとめ

 任那からの渡来人である「蘇那曷叱智」の伝承になります。白村江の戦で新羅・唐連合国に敗れるまでヤマト朝廷は朝鮮半島に進出をしていた様です。特に任那国はヤマト朝廷との関係が非常に深く、任那国があったとされる場所には日本式の前方後円墳などが築かれるなど日本からの文化も伝えられていた様です。

比売語曽社神

 日本書記では、任那の都怒我阿羅斯等が追いかける童女の伝承で登場する「比売語曽社神」ですが、同様の伝承が古事記にも記されています。古事記では応神天皇の御代の記述に登場し、「新羅の天之日矛が手に入れた赤い玉が美しい娘になり、その娘を正妻として幸せに暮らしていたが、ある日驕り高ぶった天之日矛が妻を罵った事から娘は親の国に帰ると小舟に乗って難波に逃げたとし、この娘は難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神である。」と記しています。
 古事記と日本書記ではほぼ似たような伝承でありながら、それぞれ任那と新羅という対立している国の人物がそれぞれ関わっている内容となっているのが特徴でしょうか。

  • 大分県姫島:比売語曽社
  • 大阪府東成区:比売許曽神社

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 日本書紀を読んでいくにあったって、原文は漢文で書かれているので非常に読み込むのが困難なので、現代語訳されている本が一冊あると助かるかと思います。当サイトでは、戦前から日本書記の翻訳本として有名な岩波文庫の日本書記を非常に参考にさせて頂いています。

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