神社を巡る

金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町)建武中興十五社、官幣中社

2021年7月29日

神社情報

神社名金崎宮
鎮座地福井県敦賀市金ケ崎町一番地四
御祭神尊良親王
恒良親王
創建明治二十三年
社格等官幣中社
神名帳
例大祭五月六日
境内社絹掛神社(御祭神:藤原行房卿、新田義顕卿、気比氏治命、気比斎晴命、瓜生保命、瓜生義鑑命、里見時成命、里見義氏命 、由良具滋命、長浜顕寛命、武田与一命、以下殉難将士命)
朝倉神社(御祭神:朝倉景冬、朝倉景豊、朝倉教景、朝倉景紀、朝倉景悦、朝倉景恒、朝倉道景)
愛宕神社(御祭神:火産霊大神、伊弉諾命、天熊大人命)
御朱印
URLhttp://kanegasakigu.jp/

御由緒

 江戸時代から明治維新により明治時代に突入すると、王政復古が声高にさけばれ、明治天皇による親政とまではいきませんが、徳川家より政治の実権を取り戻した天皇を中心として政治体制が構築されていきます。こうした流れの中で、鎌倉時代末期に北条家による政治から天皇の親政を目指した「後醍醐天皇」の存在がクローズアップされ、後醍醐天皇とそれを支えた人達を神格化させ御祭神とする神社が全国各地に建立されていきます。この時建立された神社を「建武中興十五社」と呼びます。日本が戦争に突入することなく大日本帝国が存続していたら、建武中興十五社ではなくも少し神社数は増えていたと思います。

 今回紹介する金崎宮も明治時代に政府主導で建立された「建武中興十五社」のうちの一社になります。御祭神は後醍醐天皇の皇子である尊良親王と恒良親王になります。

金ケ崎城

 金崎宮が鎮座する場所は、古くから「金ケ崎城」が立っていた場所になり、南北朝時代には南朝方の拠点となっていた場所にになります。延元元年/建武三年(1336年)、新田義貞は尊良親王と恒良親王を奉じて敦賀の地に下向し、金ケ崎城に入城しています。しかし、ここに北朝方の斯波高経、高師泰らが率いる六万とも言われる軍勢が押し寄せ、金ケ崎城を包囲します。
 翌延元二年/建武四年(1337年)三月六日、応戦むなしく金ケ崎城は落城、尊良親王と新田義貞の嫡子である新田義顕は自害し、将士以下三百余人が亡くなったといいます。恒良親王は金ケ崎城から脱出しますが、後に捕らえられ京都にて幽閉、翌年には毒殺されたと伝えられています。

 ただ、金ケ崎城が世間に知られる事になった戦いは、南北朝時代ではなく戦国時代における「織田信長」対「朝倉義景」による金ケ崎城の戦いなのではないでようか。織田信長は朝倉義景を攻める為、越前国の口元ともいえる金ケ崎城を攻め込み、一度は落城させたといわれています。しかしその直後、義弟である浅井長政が突如信長を裏切り、朝倉側に与し、信長軍の後方より金ケ崎城に向けて軍勢を差し向けたという報が信長の下に届けられます。最初は取り合わなかった信長も続々と後方から迫りくる浅井軍の報が届けられると挟撃を恐れ、急遽京に向かて撤退を行います。この時の信長軍の殿を勤めたのが豊臣秀吉、明智光秀になります。
 大河ドラマなどで何度も取り上げられている戦いになるので、皆様も何度も聞いた事があるのではないでしょうか?

 こうした後醍醐天皇の第一皇子である尊良親王が自害した場所という所縁もあり、明治二十三年に尊良親王を御祭神とする金崎宮が創建されます。明治二十五年には恒良親王が本殿に合祀されています。

参拝記

 現在は休止中の敦賀港線の貨物ターミナルの裏手側、敦賀市の北東側に位置する場所に金ケ崎城址があり、この城址の一角に金崎宮が鎮座しています。金崎宮の参道の脇には、北陸三十三観音特番札所、若狭観音霊場二番札所、北陸白寿観音三番札所になっている誓法山金前寺が立っています。

気比神宮の奥の宮

金ケ崎城の麓には気比神宮の奥の宮である伽藍十二坊が建てられていたんだとか。伽藍十二坊となると、気比神宮にも神宮寺があった時代があったので、丁度神宮寺が気比神宮の祭式を取り仕切っていた頃の話になるんだと思います。織田信長の朝倉義景の支城である金ケ崎城を攻めの際、気比神宮は国主である朝倉氏に加勢していて、僧兵などが奥の宮に立て籠って抗戦していたみたいですね。しかし、戦いの中発生した兵火により奥の宮はすべて灰燼に帰してしまっています。

 気比神宮も社家は放逐、社領没収となり、祭祀が全く行う事ができない状態になってしまっていた様です。ここまで行ったらほぼ廃社と変わらない感じですね。)気比神宮の復興はこの地に結城秀康が封じられてからとなり、たぶんこの時に仏教色を極力排除した神社として再興されているんだと思いますが、この頃には神宮寺が無くなっています。そしてその後、奥の宮だった場所に、奥の宮時代の本尊を奉安する「金前寺」が建立されています。

 社号標が建てられている場所から進んでいくと、徐々に上り坂になっていきます。境内社である愛宕神社が鎮座している辺りから、石段にかわっていき境内まで石段の参道が続いていく事になります。

社号標

 参道入口に建てられている社格である「官幣中社」が合わせて彫られた金崎宮の社号標になります。この当時は「崎」は「﨑」の字を使っていたようですね。社号標の後にある駐車場は、金ケ崎城や金崎宮に向かう方用の駐車場の様です。当然自分もここの駐車場に車を停めさせて頂き、金崎宮を目指します。

境内社:愛宕神社

 参道の途中に境内社である愛宕神社の鳥居、社号標が据えられています。鳥居をくぐった先の石段を登った先に愛宕神社の社が鎮座しています。

 鞘堂に収まっている愛宕神社の本堂です。積雪がある地方なので、こうした雪対策の鞘堂は必須なんでしょうね。

参道

 愛宕神社の鳥居のあたりから石段の参道が続いています。その先に、金崎宮の鳥居が見えています。

一の鳥居

 扁額が掲げられた明神鳥居の一の鳥居になります。その脇には、金崎宮の由緒書きが設置されています。

手水舎

 銅板葺き木造四本柱タイプの手水舎になります。水盤と井戸がセットになった手水舎になります。

二の鳥居

 社殿を囲む瑞垣の流れの中に設置された伊勢鳥居の形状をしている二の鳥居になります。

社殿

 神門の先に本殿が鎮座しているのですが、神門の手前にあるこの開放的な建物は神楽殿でいいのかな?または拝殿なのだろうか・・・。
 愛知県にもこうした開放型の社殿を神社がありますが、やはり拝殿であったり、神楽殿であったり、絵馬殿だったりと様々な性格を持つ建物になっています。

 神門の扉が開けられており、そこに賽銭箱が置かれています。ここで参拝するようになっています。

 元官幣社の本殿をこんなに間近で拝見できる神社はそんなにない気がするので、このアングルは貴重かもしれませんね。

境内社:絹掛神社

 金崎宮の社殿と並ぶ様に南北朝時代に北朝方に攻め落とされた時に、自害した尊良親王を追って殉じた将士たちを祀っている絹掛神社の社が鎮座しています。

摂社と合わせて彫られた絹掛神社の社号標になります。この社号標で特筆すべき点が一点あります。というか愛知県で寺院・神社を巡っている人にはえ?ここまで?と思うはずなんです。

 それが、この社号標の奉納した「伊藤萬蔵」氏になります。

 この方、名古屋で成功した事業家の方で、知多四国霊場、三河新四国霊場を始めとする愛知県にある色々な霊場をお遍路・巡拝していると、社号標や灯篭、線香立てなどを数多く奉納されている方になります。霊場だけなくその他の寺院や神社などでもその名前を数多く見かけることがあるかと思います。

そんな方が、まさか福井県敦賀市にまで石造物を奉納しているなんて、驚いてしまった訳です。

尊良親王御墓所見込地

 金崎宮から少し奥には、金ケ崎城の戦いで自決した「尊良親王」の墓所ではないのかと考えれていた場所があります。ただ、尊良親王の墓所は京都にあるので、現在では自決の地ではないかと見られています。

地図で鎮座地を確認

神社名金崎宮
鎮座地福井県敦賀市金ケ崎町一番地四
最寄駅敦賀コミュニティーバス「金崎宮バス停」徒歩4分

-神社を巡る