城址を巡る

金ケ崎城(福井県敦賀市金ケ崎町)国指定史跡

2021年8月1日

城郭情報

城郭名金ケ崎城
所在地福井県敦賀市金ケ崎町内
築城主伝:平通盛
築城年伝:養和元年(1181年)
主な城主甲斐氏、朝倉氏
文化財国指定史跡
御城印

沿革

 金ケ崎城の正確な築城年については不詳の様なのですが、伝承によると、源平合戦の真っ只中の養和元年(1181年)、この地に木曽義仲征討の為下向してきた「平通盛」によって築城されたのが金ケ崎城の始まりであるとされています。

平通盛と敦賀

 平清盛が治承五年(1181年)閏二月四日に死去すると、反平家の動きが活発化し、特に木曽から北陸道に進出し始めた「木曾義仲」の勢力が越中、加賀、能登に広がり、徐々に越前国にも波及し始めます。この動きに対し、北陸道追討宣旨が下され、越前守であった「平通盛」が鎮圧の為、越前国に下向します。

 養和元年(1181年)九月、平家軍と木曽義仲軍が越前・加賀国境で衝突、合戦となりますが、国主たちの裏切りなどもあり、徐々に平家軍は後退を余儀なくされます。通盛は越前国の国府にて勢力の挽回を図りますが、想像以上に反平家の影響が強く、水津での戦いに敗れ、敦賀に撤退し津留賀城に入城しています。しかし、通盛は敦賀をも追われ、十一月に帰京しています。

 平通盛が入城したという津留賀城が、大谷義継が城主をなった事で有名な「敦賀城」と同じ城なのか?それとも、金ケ崎城に築いた城を津留賀城と呼んでいたのかまでは不明ですが、敦賀の地にて源平合戦の一コマがあった事は確かな様です。

南北朝時代~室町時代

 延元元年/建武三年(1336年)、尊良親王・恒良親王を奉じて新田義貞率いる南朝方の軍勢が北陸道の勢力確保のために敦賀の地にたどり着き、気比神宮の大宮司であるとする気比氏の庇護を受け金ケ崎城に入城します。
 翌延元二年/建武四年(1337年)、斯波高経、高師泰らが率いる北朝方の六万とも言われる軍勢が金ケ崎城を包囲し兵糧攻めを行った結果、尊良親王は自害、新田義貞の嫡子新田義顕を始めとする300人余とも言われる将士が城に火を付けたうえで殉死するなどして金ケ崎城は落城しています。

 更に翌年の延元二年/建武五年(1338年)に、勢力を再集結させた新田義貞が再び金ケ崎城を奪い取ったとされていますが、その後いつまで南朝方が金ケ崎城を支配していのかは不明。

 室町幕府が開幕すると、三管領の一つ「斯波氏」が越前守護を歴任していくことになります。当主は管領として京に滞在していた事から、領地の運営は「守護代」に任せざるを得ない状況となっていて、越前守護代である「甲斐氏」が非常に力を付けていったと見られ、主君である斯波氏とも対立できるまでに力を付けた「甲斐常治」は寛正年中の頃には金ケ崎城に居城していたと言われています。

 朝倉氏七代目当主「朝倉孝景」は応仁の乱の最中の文明三年(1471年)、東軍の細川勝元から越前守護職を認められ、弟である「朝倉景冬」を敦賀郡司に任じます。これ以降、朝倉家は越前国を統一し、戦国大名へと発展していきます。

 歴代の敦賀郡司(景冬ー景豊ー教景(宗滴)ー景紀ー景恒)は、朝倉一族の中でも有力な分家が就いていて、金ケ崎城を居城としていました。

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戦国時代

 元亀三年(1570年)、織田信長と徳川家康の連合軍が朝倉攻めを開始し、越前国への入口ともいえる「金ケ崎城」は敦賀郡司である「朝倉景恒」が守っていましたが、朝倉家の本拠「一乗谷」からの援軍が遅れた為、景恒は兵力差もあったとことから信長からの開城要請に従い、金ケ崎城を開城しています。

 この直後、近江小谷城主で織田信長の義弟である「浅井長政」が突如信長を裏切り、織田軍に向けて軍勢を差し向けます。この報を聞いた信長は金ケ崎城を放棄して京へ全軍撤退を決意します。この撤退戦が「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる戦いになります。この撤退軍の殿を勤めたのが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と明智光秀率いる軍勢だったと言われています。

織田信長の金ケ崎城攻めで特に有名な伝承が「袋の小豆」になります。

織田信長の妹で浅井長政に嫁いだ「お市の方」は、夫長政の裏切りを兄信長に伝える為に、手紙では怪しまれるので、小豆を袋に入れて、織田の陣営に、陣中見舞いと称して送った。その袋の上下は縄でくくられており、受け取った信長は、瞬時にして浅井の裏切りを悟り、まさに「袋の中のネズミ」となる前に金ケ崎城からの撤退を決断した。

という話です。「朝倉家記」という書物に記されているそうなのですが、朝倉家記の信憑性があまり高くなく、この袋の小豆の逸話も後年の創作だと見られていますが、創作にしても何らか話の元となる事があったのではないかなとは思っています。

 この「金ケ崎の退き口」と呼ばれる戦いの後に、金ケ崎城は廃城となったようです。

訪問記

 金崎宮の境内の向かって左手奥を進んでいくと、金ケ崎城址の石碑が建っており、ここから先が城址となる事がわかります。こういった石碑は結構本丸・主郭部分に据えらている所が多いのですが、金ケ崎城では後で紹介しますが、月見御殿跡に設置さていると海を背景になかなか絵になるとは思うんですけどね。

 石碑の場所から金ケ崎城のある山の縁をぐるっとまわるかんじで歩道が整備されています。徐々に歩道は緩やかな石段になって山を登っていく感じになっていきます。石段を登っていくと途中に南北朝時代に金ケ崎城にて自刃された尊良親王の墓所推定地(現在では自刃された場所と考えられている様です。)の碑が見えてきます。

月見御殿跡

 尊良親王の墓所推定地から更に石段を登っていくと、登り切った場所が「月見御殿跡」と言われる場所にたどり着くことができます。この場所の全景が分かる写真を撮り忘れてしまったので、部分的な紹介になってしまいます・・・。

 月見御殿跡には「金崎古戦場」と彫られた石柱と、なにやら意味深げな石碑が据えられています。どうやら、南北朝時代の戦いを偲ぶための碑になるようです。金ケ崎城を巡る戦いとしては織田信長のが有名だとは思うのですが、こちらは金ケ崎城を巡る戦いより、金ケ崎城からの撤退戦のが有名な事もあってこうした碑は作りにくいのかもしれませんね。

 月見御殿跡からは敦賀湾を一望する事ができます。しかし・・・海が青いな・・・。

 同じ場所から少し右を向くと、関西電力の敦賀火力発電所が一望できます。写真中央の山積みになっている黒い物は「石炭」なんですね。で、着岸している貨物船は石炭輸送船のようで丁度積み下ろし作業が行われているようでした。

 敦賀というか敦賀湾から若狭湾にかけては「原発銀座」とも呼ばれる原子力発電所が4ヶ所+もんじゅが狭いエリアに乱立?している場所なので、まさか火力発電所があるとはまったくおもってなかったので驚きです。

木戸跡

「木戸」がどういうものなのか。字を読む限り、尾根の様になっている場所に敵の侵攻を食い止めると為の木で作られた塀と門などが構築されていた場所なんだろうと想像できます。

焼米石出土跡

 この場所から、焼米が出土された様で、この事からこの場所に食糧庫が設けられいたと考えられている様です。時代的には織田信長の金ケ崎城攻めの時ではないかとされています。

御城印

 金崎宮の社務所にて金ケ崎城の御城印を頂くことができます。南北朝時代と戦国時代の二種類が用意されている様ですね。

所在地を地図で確認

城郭名金ケ崎城
所在地福井県敦賀市金ケ崎町内
最寄駅敦賀コミュニティーバス「金崎宮バス停」徒歩5分

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