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常宮神社(福井県敦賀市常宮)延喜式内社

2021年8月3日

神社情報

神社名常宮神社
鎮座地福井県敦賀市常宮十三番地十六
御祭神天八百萬比咩神
神功皇后
仲哀天皇

東殿宮:日本武命
総社宮:応神天皇
平殿宮:玉姫命
西殿宮:武内宿禰命
創 建不詳
社格等県社
神名帳延喜式神名帳:越前國敦賀郡 天八百萬比咩神社
越前国神名帳:従二位 天八百萬比咩大明神
文化財国 宝:朝鮮鐘
国指定:ー
県指定:本殿・拝所・中門
市指定:ー
例大祭七月二十二日
境内社二御兒神社(御祭神:蛭子尊・素盞嗚尊)
天国津彦神社(御祭神:磯良大神)
 ・延喜式神名帳:越前國敦賀郡 天國津彦神社
 ・越前国神名帳:正四位 天國津彦神
天国津比咩神社(御祭神:龍女神)
 ・延喜式神名帳:越前國敦賀郡 天國津比咩神社
 ・越前国神名帳:正四位 天國津姫神
天鈴神社(御祭神:住吉大神)
 ・延喜式神名帳:越前國敦賀郡 天鈴神社
 ・越前国神名帳:正四位 天鈴彦神
玉佐々良彦神社(御祭神:高良玉垂命)
 ・延喜式神名帳:越前國敦賀郡 玉佐々良彦神社
 ・越前国神名帳:正四位 天玉佐々良彦神
伊覩神社(御祭神:伊信露貴彦神・五十跡手神)
神明神社(御祭神:伊勢両皇大神)
佐田彦神社(御祭神:佐田彦太神)
竹生島神(御祭神:市杵島姫神)
御朱印
URL
参拝日:令和三年(2021年)七月二十一日

御由緒

 往古より、この地には養蚕の神として天八百萬比咩神社(御祭神:天八百萬比咩命)が鎮座していたといいます。

 仲哀天皇と神功皇后は敦賀に行幸され、現在の気比神宮の境内の場所に角鹿笥飯宮つぬがのけひのみやを造営され滞在されていました。その後、天皇は紀州に向かい、神功皇后はこの地に留まっています。そして、仲哀天皇の元に向かう為に海路で穴門(現在の山口県)の豊浦宮に向かう為出航なされた。

 日本書記に記されているこの由緒を以てこの地に社殿を修造され、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、日本武命、玉妃命、武内宿禰命が合祀されたと伝えられています。

常宮神社の社殿が修造された時期については史料により色々な説があるようです。

  • 大宝三年(703年) :常宮神社由緒、福井県神社庁
  • 推古天皇の御代    :敦賀郡誌
  • 桓武天皇の御代    :気比宮社記
  • 承和十一年(808年):気比宮社記別伝

敦賀郡誌によると、神功皇后の神霊が示現し、「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」という神託を示した為、天八百萬比咩神社を修造し、神功皇后以下六柱を合祀したと書かれています。

享禄二年(1529年)八月越前守護「朝倉孝景」・敦賀郡司「朝倉景紀」により大規模な営繕が行われ、翌九月に東殿を営繕する。
天正二年(1574年)八月十一日火災により社殿灰燼に帰す。
文禄二年(1594年)敦賀領主「大谷義継」が小祠を造営。
慶長七年(1602年)越前藩主「結城秀康」により気比神宮の大造営に合わせて、本殿を造営。
慶長八年(1603年)正月結城秀康、社領三十三石を寄進する。又常宮の山は御山として伐採を禁じ、海は拝殿の東西三町沖六町を禁漁とした。
元禄十五年(1702年)八月九日千年祭を催行する。

、享禄二年の朝倉氏による大規模営繕以前については自分が調べうる史料には載っていなかったので、平安時代ー室町時代の約700年間については不詳となります。
 Wikipediaを見ると、「長和四年(1015年)に天台僧の円秀僧正によって再興された。」とあります。ここから、後からも出てきますが、常宮神社は天台宗による管理が行わる事になったのでしょう。

 天台宗の円秀僧正によって再建されたという常宮神社は社家ではなく、社僧によって神事が執り行われてきた様で、常宮神社の周囲には別当となる九坊があったそうです。その九坊は、寶蔵坊、寶泉坊、光乗坊、泉蔵坊、成就坊、常蔵坊、大乗坊、持養坊、圓蔵坊になります。これら九坊は天台宗叡山惣持坊の末に属していました。明治政府による神仏分離令により別当九坊は廃寺となり、僧侶は神官に改めています。

明治九年五月三十日縣社に列格。
明治十年三月二十一日内務省より、常宮神社本宮並びに境内社の玉佐々良彦神社、天鈴神社、天國津比咩神社、天國津彦神社を気比神宮の境外摂社と定められる。
明治四十一年四月神饌幣帛料供進指定社となる、

 天八百萬比咩命(常宮大神)は上古より此の地に鎮まり給い、今から2,000年前、仲哀天皇の即位2年春2月に天皇皇后御同列にて百官を率いて敦賀に行幸あそばされ、筍飯の行宮を此の地に営まれた。
そののち、天皇は熊襲の変を聞こしめされ、紀州に向かわれ、さらに陸路、山陽道を御通過、今の山口県に向かわれた。
 神宮皇后は、2月より6月まで此の常宮に留まられ、6月中の卯の日に海路日本海をお渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再会あそばされた。
この由緒をもって、奈良朝時代の大宝3年(703)、勅をもって社殿が修造され、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、日本武命、玉妃命、武内宿禰命が併せ祀られたという。
当社御社名は神功皇后が「つねに宮居し、波風静かなる哉楽しや」と宣り給われた故事によるという。
 爾来、氣比神宮の奥宮として一体両部、上下の信仰篤く、小浜藩政まで氣比神宮の境外の摂社として祭祀が執り行われた。明治9年5月、県社常宮神社として氣比神宮から独立。
 天八百日咩命は、養蚕の守り神として敦賀は勿論、南条郡、三方郡、さらには滋賀県北部の人々の信仰を集めてきた。
神功皇后は、三韓親征の前此の地にて御腹帯をおつけあそばされ、のち、今の福岡県粕屋郡宇美町にて応神天皇を御安産になられた故事に因み古くより安産の神として御神徳を垂れ給われている。
また皇后は此の地を船出されるにあたり、海神を祀り海上の安全を祈願され、はるばる日本海を渡られ、朝鮮までも無事航海された由縁により、海の守り神として深い信仰を集めている。
豊臣秀吉公、当社を崇敬し、文禄の役(1592)に兵たちの武運長久を祈願し、凱旋に際して、慶長2年(1597)2月29日彼の地朝鮮の吊鐘1口を敦賀城大谷刑部吉隆を正使として奉納した。
この吊鐘は「朝鮮鐘」の名で明治33年、美術工芸甲種第1号として国宝に指定され、昭和27年10月、新国宝に再び指定を受けた。
 本殿は、越前福井藩主松平公の寄進により、正徳2年(1713)の建築である。
御屋根銅版葺替修理を昭和38年7月に行った。
御拝所は、元、氣比神宮中門であったものを昭和17年当社に移築したが、これは、寛永14年(1637)酒井忠勝公の寄進である。
 当社の例祭は、毎年7月22日午前10時より行われる。
そして同正午より総参祭が斎行される。
この総参祭は、氣比神宮の宮司・神職・総代ほか多数が、氣比の神々を船神輿に奉安し大小の船を連ねて当宮に海上渡御され、当宮本殿に遷ったのち、再び午後3時に帰還されるものである。
たなばた祭とも呼ばれている。
 境内神社は、日本武尊を祀る東殿宮。
武内宿禰を祀る西殿宮。
譽田別尊・御食津神を祀る総社宮。
玉妃命を祀る平殿宮。
蛭子尊・素盞嗚尊を祀る二御兒神社。
磯良大神を祀る天国津彦神社。
龍女神を祀る天国津比咩神社。
住吉大神を祀る天鈴神社。
大鷦鷯命を祀る玉佐々良彦神社。
伊信露貴彦神・五十跡手神を祀る伊覩神社。
伊勢両皇大神を祀る神明神社。
佐田彦太神を祀る佐田彦神社。
市杵島姫神を祀る竹生島神社の計13社である。

福井県神社庁「常宮神社由緒」より
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参拝記

 気比神宮天満神社金崎宮/金ケ崎城など敦賀市東部地区から、気比松原の脇を抜けて、県道33号線・141号線を進んで、常宮神社に向かいます。気比の松原を超えるとずっと右手に敦賀湾を望みながら、車を進めていくと、左手に鳥居が見えてきます。この鳥居が今回参拝する常宮神社の鳥居の様です。

一の鳥居と社号標

 笠木と貫の部分で鉄製で補強がされている(こうした補強は初めて見た気がします。)扁額が掲げられた石造明神鳥居と、社号標になります。社号標と対になる様になにやら「安産の神様」と彫られた石柱がありますね。

神功皇后が安産の御神徳があること言う事から敦賀市周辺では「お産の常宮さん」と呼ばれ、昔から地元の人に親しまれています。親子何代にもわたって常宮神社に安産祈願に訪れている人も少なくないんだとか。

「常宮神社 安産祈願」のキーワードをGoogle先生に尋ねてヒットしたサイトを見ると、「応神天皇をここ(常宮)でお生みになったと伝えられている。」と紹介されていますね。これは、神功皇后が新羅征伐から帰国後、筑紫国(現:福岡県)にて出産したという故事から「神功皇后は安産の御神徳がある」という事から、神功皇后にゆかりのある常宮神社が安産に御神徳ある神社となったと思われます。

弐の鳥居

 本殿から真っ直ぐ参道が伸びた場所に設けられている扁額が設けられた石造明神鳥居になります。平成二十三年に造られた鳥居になります。

手水舎

 木造銅板葺き屋根四本柱タイプの手水舎になります。四本の柱が全く転びがつれられていない垂直の柱になっているのが特徴ですかね。そういえば、ここは柄杓がおかれています。

社殿

 福井県の指定文化財となっている本殿と拝所になります。(中門の写真はすっかり失念しており撮影し忘れております。)排除は唐破風造妻入銅板葺の一間×二間の開放造になっていて、本殿は銅板葺の三間流造となっています。

 拝所は、昭和十七年から十八年に気比神宮の中門(向唐門)を移設したものになります。

社殿を横から見ると、本殿の向拝部分と拝所の唐破風が接続されていました。たぶん、この場所に拝所を移設した時に、本殿の向拝部分に拝所と同じ屋根勾配の唐破風を設けて接続させたのでしょうね。

 拡大してみました。銅板の違いで本殿の向拝部分と拝所の屋根がある意味無理やり接続されている事がここを見ると一目瞭然ですね。

境内社

 本殿の周りに、上記写真と同じ社がそれぞれ鎮座しています。これら四社は気比神宮と同じ造りとなっていて、本殿と合わせて「大五座」と呼ばれています。常宮神社の御祭神を本殿と四社を合わせた七柱とする場合もあります。

  • 西殿宮(本殿手前向かって左手)御祭神:武内宿祢尊
  • 平殿宮(本殿奥側向かって右手)御祭神:玉姫命
  • 総社宮(本殿奥側向かって右手)御祭神:応神天皇
  • 東殿宮(本殿手前向かって右手)御祭神:日本武尊

 ほかにも本殿周囲に境内社が鎮座しているのですが、延喜式内社とされている四社については、上記の様に棟続きの相殿造となっています。

拝殿(遥拝所)

 拝殿と呼ばれている建物が常宮神社の二の鳥居と正対するように建っています。最初この建物が何に使わているのか全く分からず、この建物からみる敦賀湾は綺麗だなぁ~って思って海を眺めていたら、地元の方にここから気比神宮を参拝する為に造られた建物なんだと教えてもらいました。遥拝所なんですね。

 常宮神社が気比神宮の摂社(奥の宮)とされていた頃の名残なんでしょうか。

国宝:朝鮮鐘

 常宮神社には、国宝に指定されている「朝鮮鐘」が社宝として保管されています。豊臣秀吉が文禄の役で朝鮮から持ち帰ったものであるといい、慶長2年(1597年)に神功皇后の三韓征伐に因み、大谷吉継を使者として常宮神社に奉納しています。
 普段はとある理由で宝物庫に保管されているので、普段目にすることが出来なくなってしまったのが残念ですね。

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神社名常宮神社
鎮座地福井県敦賀市常宮十三番地十六
最寄駅敦賀コミュニティーバス「常宮バス停」徒歩1分

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