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細江神社(浜松市浜名区細江町)延喜式内社

神社情報

神社名細江神社
鎮座地静岡県浜松市浜名区細江町気賀九九六番地(GoogleMap
御祭神建速素盞嗚尊
奇稲田姫尊
創 建永正七年(1510年)または天正十二年(1584年)
社格等郷社
神名帳延喜式神名帳 遠江国濱名郡 角避比古神社
       遠江国引佐郡 大セチ神社
文化財
例大祭七月第四月曜日
境内社八柱神社
四所神社
天王稲荷神社
細江天満宮
八幡神社
市神社
藺草神社
URL
御朱印
参拝日:2021-12-4

御由緒

 社伝によると、「明応七年(1498年)にこの地を襲ったという大地震とその後に発生した津波によって浜名湖口に鎮座していた式内社である「角避比古神社」が流出してしまい、御神体が「村櫛」に漂着したという。一時期、村櫛に仮宮と建て奉斎していたが、十二年後の永正七年(1510年)に発生した地震と津波によって再度流出し、次は気賀の赤目に漂着した。気賀の里人はこの地に仮宮を建て奉斎し、翌年の九月に現在の境内地に社殿を建立、牛頭天王社と称し祀る様になった。」としています。

 こうした経緯から、延喜式神名帳に記載されている「遠江国浜名郡 角避比古神社」の論社となっています。ただ由緒を読むと、論社というより後継社といった感じになるかなとおもいます。
また「遠江国引佐郡 大セチ神社」の論社にもなっていますが、式内社調査報告によると細江神社の創建は永正七年(1510年)または天正十二年(1584年)としている点もあり、漂着した御神体を祀る以前にこの地に神社があったという資料が存在していないという事もあってこちらについては有力視されていない様です。

 明治元年には神仏分離政策によって御祭神を牛頭天王ではなく素盞嗚尊とし、社名も現在の細江神社に改称。明治六年に郷社に列格し、明治四十年に神饌幣帛料供進指定社となっています。

三代格式」の中で唯一完全な状態で現存している「延喜式」の巻九・巻十は全国に鎮座する当時繁栄していたとされる神社を記載したという「神名帳」になっています。通称「延喜式神名帳」に記載されている神社を「式内社」と呼ぶのですが、今回紹介する「細江神社」は延喜式内社となっています。

延喜式内社とは?

平安時代中期頃まで日本は「律令制度」によって国家運営が行われていました。

そもそも、この律令制度とはなんぞや?

飛鳥時代から平安時代中期頃まで日本の統治体制になります。「律(現在の刑法)」と「令(現在の民法)」によって国家運営を行う制度なので「律令制度」と呼ぶわけです。こういった規則というのは時代によって変わっていくのが一般的ですが、どうやら「律」と「令」は頻繁に改正するものではないらしく、その辺から考えると現在でいう所の「日本国憲法」に相当するのかなと思います。このため、時代に即した統治をおこなう為に作らるのが、「(現在の法令)」「(施行規則)」によって構成された「格式」になる訳です。こちらは何度か改正されている様なので、現在の「法律」に相当する物だと思います。

天平宝字元年(757年)に施行された「養老律令」の改訂版施工規則として作られたのが康保四年(967年)に施行された「延喜式」になります。延喜式は全五十巻からなっていて、一巻~十巻が神祇官について、十一巻~四十巻が太政官八省関係、四十一巻~四十九巻が宮司関係、五十巻が雑則となっています。このうち、九巻と十巻が冒頭にも述べている全国の神社が記載されている「神名帳」になります。

この事から、式内社とは、「日本の政府に認められた神社」であるという事ができるかと思います。

ちなみに、太政官八省の記述よりも朝廷の祭式を司る神祇官についての記述が先に来ている所を見ると、神祇官は太政官より上位であったことが分かります。

引佐郡式内社について

 延喜式神名帳に記載されている「引佐郡」の神社は、渭伊神社、乎豆神社、三宅神社、蜂前神社、須倍神社、大セチ神社の六社になります。この六社に対し式内伝承社は、

  • 渭伊神社 浜松市浜名区引佐町井伊谷一一五〇番地
  • 乎豆神社 浜松市浜名区細江町中川四六四一番地一号
  • 二宮神社 浜松市浜名区引佐町井伊谷三〇六番地
  • 蜂前神社 浜松市浜名区細江町中川六九一五番地
  • 須倍神社 浜松市浜名区都田町六二八四番地
  • 三嶽神社 浜松市浜名区引佐町三嶽五九七番地
  • 細江神社 浜松市浜名区細江町気賀九九六番地
  • 四所神社 浜松市浜名区滝沢町一五八番地一号

の八社となっています。6番三嶽神社、7番細江神社、8番四所神社は大セチ神社の論社ですが、それ以外の式内社については論社がなく比定社が多い地域とも言えます。

参拝記

乎豆神社」の参拝を終えて、再び国道362号線を西に車を走らせます。国道362号善は井伊谷川を渡河して気賀の街中を抜け、姫街道と呼ばれる愛知県豊川市に抜ける旧街道と合流するのですが、その合流する追分?近くに鎮座しているのが今回参拝する細江神社になります。

境内入口

 朱塗りというにはかなり色が薄いですが、扁額が掲げられた明神鳥居と社号標が据えられた境内入口になります。鳥居なんですが、まったく素材を意識してなかったので確認してないですが、写真を見る限り石造ではない感じですね。

 社号標は旧社格である「郷社」が合わせて彫られています。

 由緒書きが境内入口に掲げられていました。まだしっかりと墨字を読むことができる由緒板ですね。

 この時期は、境内入口近くの銀杏の黄色が非常に鮮やかで目を惹きます。

手水舎

 コンクリート造二本柱タイプの手水舎になります。現代的解釈で造られた新時代の二本柱タイプの手水舎ですね。

社殿

 入母屋造瓦葺平入に入母屋破風の向拝が設けられた拝殿を有する社殿になります。向拝の屋根と拝殿の壁がぶつかる所?(なんて言っていいのかさっぱり分かりませんが・・・)の屋根の曲がり具合が無理やり納めてます的な感じです。

境内社

 立派な社殿を有する藺草神社になります。細江神社は「大地震」が重要なキーワードとなっている様で、創建についても地震が関連していますが、境内社である藺草神社も大地震が関係している様です。宝永四年(1707年)に発生した大地震によって押し寄せた高潮(津波?)よって開墾された田圃に塩が入ってしまい、稲作は全滅状態となってしまったそうです。この困窮を打開する為に用いられたのが「琉球藺」の栽培で、後に浜名湖岸一帯の名産物になっていきます。この藺草神社は当時の領主である近藤用随公の徳を称えて創建された神社になります。

 藺草神社の社殿前に幹に大きな穴があいている御神木である「クスノキ」があります。このクスノキの穴の中で大蛇と大蝙蝠が主の座を巡って争ったという昔話があるそうなのですが、確かにこんな昔話ができてしまうのもわかるくらい大きな穴なんですよね。

 社伝向かって左手に、境内社が立ち並んでいます。

コラム

由緒を読むと、江戸時代に発生した大地震で浜名湖と太平洋を隔てていた陸地が崩れ浜名湖が汽水湖なった時、この崩れた陸地に鎮座していた「角避比古神社」の御神体が最終的に流れついたのが細江神社の鎮座地近くの「赤目」という所だった様です。こうした話を聞くといつも思うのが、川の氾濫、高潮、津波などで神社では御神体、寺院では仏像などが流出してしまった事自体は長い歴史の中で全国的に数えきれないくらいの事例があると思います。そして縁あって流出した御神体や仏像が離れた場所に流れ着く事もよく聞く?話かと思うのですが、そうした場合、たどり着いた先で祀られ、その後神社や寺院が創建されたという話・・今回の細江神社もまさにこの事例ですが・・が多い様に思えるのですが、流出元がまったく分からない場合はこうした事もありかなと思いますが、流出元が分った場合って、元の鎮座地に戻さないのですかね?自分の尺度も車やバイクを使っているのが基準となってしまっているので、かなり江戸時代以前の人達とは距離感が異なっているとは思いますが、連絡して返してあげればいいのにと思ってしまうのは現代人の感覚なのかな。

地図で鎮座地を確認

神社名細江神社
鎮座地静岡県浜松市浜名区細江町気賀九九六番地(GoogleMap
最寄駅鉄道:天竜浜名湖鉄道「気賀駅」徒歩5分

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