
御陵情報
御陵名 | 佐保山南陵 |
被葬者 | 聖武天皇 |
古墳名 | 法蓮北畑古墳 |
所在地 | 奈良県奈良市法蓮町北浦地内(Googlemap) |
陵 形 | 山形 |
規 模 | ー |
築造期 | ー |
御陵印 | 畝傍陵墓監区事務所 |
聖武天皇とは
全国に国分寺・国分尼寺の建立の詔を発し、東大寺に大仏の建立を進めた事で知られ、恭仁京・紫香楽宮・難波京など遷都を繰り返した天皇でも知られています。在位中は長屋王の変、藤原広嗣の乱などの政情の不安定さと天然痘の大流行・火災地震などの天変地異に悩まされており、これを経緯に仏教に深く帰依していきました。また、天平十五年(743年)に墾田永年私財法が制定するなど律令制の統制が崩れ私財を認めるという政策の大転換を行った天皇でもあります。
大宝元年(701年) | 生誕(父:文武天皇、母:藤原宮子) |
慶雲四年(707年) | 父方の祖母にあたる元明天皇即位 |
和銅七年(714年) | 立太子 |
霊亀元年(715年) | 父の姉である元正天皇即位 |
神亀元年(724年) | 第四十五代天皇に即位 |
神亀四年(727年) | 第一皇子である基王生誕、立太子 |
天平九年(737年) | 天然痘の大流行により藤原四兄弟など政府中枢の高官が病死 |
天平十二年(740年) | 藤原広嗣の乱 |
天平十三年(741年) | 国分寺建立の詔 |
天平十五年(743年) | 東大寺盧舎那仏像建立の詔 墾田永年私財法の制定 |
天平十六年(744年) | 第二皇子である安積親王死去 |
天平勝宝元年(749年) | 阿部内親王(孝謙天皇)に譲位 |
天平勝宝四年(752年) | 東大寺盧舎那仏像の開眼法要 |
天平勝宝八年(756年) | 崩御 |
参拝記
佐保川に架かる「法蓮橋」の西側に陵に通じる参道の入口があります。天皇陵を参拝する時の注意点として、基本的に各陵には参拝者用の駐車場が用意されていないので、車で巡る際は時間貸駐車場を利用するなどの対策が必要です。

聖武天皇の陵形は宮内庁によると「山形」となっています。山形ってなんぞ?って思っていたのですが、この聖武天皇陵のすぐ東側に戦国時代に松永久秀が多門城を築城するのですが、城内に取り込まれた様で築城時、または天正二年(1574年)の廃城時にかなり地形が改変された可能性があるようで、元々の姿は残していないようで規模・形状などすべてが不明となっています。「続日本紀」では聖武天皇が佐保山にて火葬されそのまま埋葬されたとし、陵の前に眉間寺が創建され江戸時代まで仏式で祭事が行われていた様です。

聖武天皇の陵に通じる石段とその両脇に眉間寺の伽藍が立ち並ぶ様が描かれており、そのすぐ東側に多門山、松永城跡と書かれています。一説には聖武天皇陵には西の丸が築かれたと言われているんで、前述したように陵の形状は大きく改変されてしまっていると考えて間違いないようです。

この山全体が御陵と治定していると思うのですが、この治定された範囲内に古墳が一基確認されているようです。そして江戸時代までは御陵の前のこの辺りに眉間寺が建っていたでしょうね。聖武天皇の御陵の祭事を一手に行ってきた眉間寺ですが、明治政府による神仏判然令による神道の確立と仏教の抑制による廃仏毀釈の動きが加速する中、聖武天皇の御陵からも仏教的要素が撤廃される事となり眉間寺は廃寺となってしまった様です。

国家安寧の為に全国に国分寺・国分尼寺の建立を進め、東大寺に大仏を造営し仏教を崇敬した聖武天皇なんですが、まさか自らの御陵から仏教的要素が排除されるとは思ってもいなかったのでは?と参拝しながら考えてしまいました。神道には教祖や経典が存在しないという世界でも希な宗教ですが、そんな神道に中国から渡ってきた仏教が日本人に都合のいい感じに融合してきたのが「神仏習合」だった訳で、時の政府の都合で宗教観をゴソッと変えてしまった神仏判然令は正直なところ「悪手」だったと感じざるを得ないというのが自分の気持ちですかね。

陵墓前に据えられた「聖武天皇佐保山南陵」と彫られた石柱です。


御陵前の石段から奈良市街地方面を望みます。東大寺や興福寺を眼下に納め、まさに奈良の街、平城京を聖武天皇に見守って頂いている感じがします。
御陵を地図で確認
陵墓名 | 佐保山南陵 |
所在地 | 奈良県奈良市法蓮町北浦地内(Googlemap) |
最寄駅 | 鉄 道: バ ス:奈良交通バス「法蓮仲町」徒歩5分 |