御陵

聖武天皇:佐保山南陵(法蓮北畑古墳)

2025年4月27日

御陵情報

御陵名佐保山南陵
被葬者聖武天皇
古墳名法蓮北畑古墳
所在地奈良県奈良市法蓮町北浦地内(Googlemap
陵 形山形
規 模
築造期
御陵印畝傍陵墓監区事務所

聖武天皇とは

全国に国分寺・国分尼寺の建立の詔を発し、東大寺に大仏の建立を進めた事で知られ、恭仁京・紫香楽宮・難波京など遷都を繰り返した天皇でも知られています。在位中は長屋王の変、藤原広嗣の乱などの政情の不安定さと天然痘の大流行・火災地震などの天変地異に悩まされており、これを経緯に仏教に深く帰依していきました。また、天平十五年(743年)に墾田永年私財法が制定するなど律令制の統制が崩れ私財を認めるという政策の大転換を行った天皇でもあります。

大宝元年(701年)生誕(父:文武天皇、母:藤原宮子)
慶雲四年(707年)父方の祖母にあたる元明天皇即位
和銅七年(714年)立太子
霊亀元年(715年)父の姉である元正天皇即位
神亀元年(724年)第四十五代天皇に即位
神亀四年(727年)第一皇子である基王生誕、立太子
天平九年(737年)天然痘の大流行により藤原四兄弟など政府中枢の高官が病死
天平十二年(740年)藤原広嗣の乱
天平十三年(741年)国分寺建立の詔
天平十五年(743年)東大寺盧舎那仏像建立の詔
墾田永年私財法の制定
天平十六年(744年)第二皇子である安積親王死去
天平勝宝元年(749年)阿部内親王(孝謙天皇)に譲位
天平勝宝四年(752年)東大寺盧舎那仏像の開眼法要
天平勝宝八年(756年)崩御

彷徨五年

聖武天皇といえば、国分寺や東大寺大仏を想像する方が多いかと思いますが、度々都を移した天皇としても知られています。天平十二年(740年)から天平十七年(745年)にかけて、都と移しながら政治を行った五年を彷徨五年と言います。

天平十二年八月藤原広嗣の乱
天平十二月十月二十八日東国巡行の為平城京を出発
十月二十九日大和国:堀越頓宮
十月三十日伊賀国:名張郡
十一月一日伊賀国:安保頓宮
十一月二日伊勢国:河口頓宮
十一月十二日伊勢国:壱志郡
十一月十四日伊勢国:赤坂頓宮
十一月二十三日伊勢国:朝明郡
十一月二十五日伊勢国:石占頓宮
十一月二十六日美濃国:当伎郡(多岐郡)
十二月一日美濃国:不破頓宮
十二月六日近江国:横川頓宮
十二月七日近江国:犬上郡
十二月九日近江国:蒲生郡
十二月十日近江国:野洲郡
十二月十一日近江国:禾津頓宮
十二月十四日近江国:玉井頓宮
十二月十五日山城国:恭仁京に到る
天平十三年二月恭仁京にて国分寺建立の詔を発する
天平十四年八月紫香楽に行幸
紫香楽宮造営を行う「造離宮司」任命
天平十五年十月紫香楽宮にて廬舎那仏像建立の詔を発する
天平十六年二月難波宮に遷都
天平十六年十一月廬舎那仏像の塑像の心木となる体骨柱が甲賀寺で建てられる
天平十七年元旦紫香楽宮に遷都
天平十七年五月平城京に再び遷都

短期間に何度も遷都を繰り返したことで、造営に駆り出される人々は疲弊し、官僚は何度も転居を強いられるなどして人心が離れてしまった事と大地震が発生した事が重なり、聖武天皇の遷都は悪政であるとして平城京に戻っています。

参拝記

佐保川に架かる「法蓮橋」の西側に陵に通じる参道の入口があります。天皇陵を参拝する時の注意点として、基本的に各陵には参拝者用の駐車場が用意されていないので、車で巡る際は時間貸駐車場を利用するなどの対策が必要です。

 聖武天皇の陵形は宮内庁によると「山形」となっています。山形ってなんぞ?って思っていたのですが、この聖武天皇陵のすぐ東側に戦国時代に松永久秀が多門城を築城するのですが、城内に取り込まれた様で築城時、または天正二年(1574年)の廃城時にかなり地形が改変された可能性があるようで、元々の姿は残していないようで規模・形状などすべてが不明となっています。「続日本紀」では聖武天皇が佐保山にて火葬されそのまま埋葬されたとし、陵の前に眉間寺が創建され江戸時代まで仏式で祭事が行われていた様です。

 聖武天皇の陵に通じる石段とその両脇に眉間寺の伽藍が立ち並ぶ様が描かれており、そのすぐ東側に多門山、松永城跡と書かれています。一説には聖武天皇陵には西の丸が築かれたと言われているんで、前述したように陵の形状は大きく改変されてしまっていると考えて間違いないようです。

 この山全体が御陵と治定していると思うのですが、この治定された範囲内に古墳が一基確認されているようです。そして江戸時代までは御陵の前のこの辺りに眉間寺が建っていたでしょうね。聖武天皇の御陵の祭事を一手に行ってきた眉間寺ですが、明治政府による神仏判然令による神道の確立と仏教の抑制による廃仏毀釈の動きが加速する中、聖武天皇の御陵からも仏教的要素が撤廃される事となり眉間寺は廃寺となってしまった様です。

国家安寧の為に全国に国分寺・国分尼寺の建立を進め、東大寺に大仏を造営し仏教を崇敬した聖武天皇なんですが、まさか自らの御陵から仏教的要素が排除されるとは思ってもいなかったのでは?と参拝しながら考えてしまいました。神道には教祖や経典が存在しないという世界でも希な宗教ですが、そんな神道に中国から渡ってきた仏教が日本人に都合のいい感じに融合してきたのが「神仏習合」だった訳で、時の政府の都合で宗教観をゴソッと変えてしまった神仏判然令は正直なところ「悪手」だったと感じざるを得ないというのが自分の気持ちですかね。

 陵墓前に据えられた「聖武天皇佐保山南陵」と彫られた石柱です。

 御陵前の石段から奈良市街地方面を望みます。東大寺や興福寺を眼下に納め、まさに奈良の街、平城京を聖武天皇に見守って頂いている感じがします。

佐保山周辺探訪

佐保山周辺陵墓

各被葬者の相関図

平城宮の東側、東大寺の北西に広がる佐保山周辺には聖武天皇と天皇と非常に係わりが深い方達の陵墓が点在しています。

天智天皇 ━ 阿部内親王 
       (元明天皇)  ┏ 元正天皇  
         ┣━━━┫ 
天智天皇 ━ 草壁皇子  ┗ 文武天皇
                ┣━━━ 聖武天皇  ┏ 安倍内親王
       藤原不比等 ┳ 藤原宮子     ┣━━┫ (考謙・称徳天皇)
             ┗━━━━━━ 光明皇后  ┗ 基皇子

四十三代 元明天皇
四十四代 元正天皇
四十五代 聖武天皇
     聖武天皇:光明皇后
     聖武天皇皇太子:基皇子
     聖武天皇生母:藤原宮子 

天武天皇から称徳天皇までの天皇は天武系天皇と呼ばれているのですが、跡継ぎとなる皇子が早逝するなどの要因から女性天皇が多く即位しています。称徳天皇は未婚のまま天皇に即位した事もあり跡継ぎがおらず天武系は断絶し、天智系である四十九代光仁天皇が即位しています。

狭穂姫伝説

 佐保山周辺には垂仁天皇の皇后であった「狭穂姫」に纏わる伝承地が伝わっています。古事記や日本書紀に「垂仁天皇の皇后であった狭穂姫は兄の狭穂彦王の謀叛を停める事が出来ず、稲城に籠った兄に殉じてしまった。」というめっちゃざっくり説明するとこんな感じの話が載っています。で、稲城があったであろう場所というのが狭穂彦王の本拠地だったと伝わる佐保山周辺になる訳です。

  • 狭岡神社:境内に「狭穂姫伝説」の碑があります。
  • 黒髪山稲荷神社:古事記で記されている「剃った髪を埋めた」場所という伝承があります。
  • 常陸神社:境内社に「佐保姫大神」の祠が鎮座しています。奈良で春を司る神とされていますが、狭穂姫との関係性も指摘されているんだとか。

御陵を地図で確認

陵墓名佐保山南陵
所在地奈良県奈良市法蓮町北浦地内(Googlemap
最寄駅鉄 道:
バ ス:奈良交通バス「法蓮仲町」徒歩5分

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