御陵

元正天皇:奈保山西陵

御陵情報

御陵名奈保山西陵
被葬者元正天皇
古墳名
所在地奈良県奈良市奈良阪町地内(Googlemap
陵 形山形
規 模
築造期
御陵印畝傍陵墓監区事務所

元正天皇とは

日本の皇室で初めての未婚での女性天皇。文武天皇の皇太子である首親王がまだ幼かった為、文武天皇が崩御すると、母である阿閇皇女が慶雲四年(707年)に皇位についた(元明天皇)。霊亀元年(715年)、まだ首親王が若いため、元明天皇から譲位をうけ第四十四代天皇として即位する。日本の女性天皇で初めての未婚での即位となる。在位中の養老四年(720年)に天武天皇の勅命で編纂が続けられていた「日本書紀」が完成。養老八年(724年)、首皇子に譲位し太上天皇となる。天平二十年(748年)に崩御。

天武天皇九年(680年)生誕
慶雲四年(707年)文武天皇が崩御し元明天皇が即位
霊亀元年(715年)元明天皇から譲位をうけ即位
養老元年(717年)養老律令の編纂開始
養老四年(720年)日本書記が完成
養老七年(723年)三世一身法が制定
神亀元年(724年)聖武天皇へ譲位
天平十五年(743年)聖武天皇の名代で難波京への遷都の勅を発する
天平二十年(748年)崩御

参拝記

 県道奈良44号線「奈良加茂線」の奈良阪町交差点から西に向かうと今回紹介している奈保山西陵があります。ちなみに奈良阪町交差点から東に向かうと元明天皇の奈保山東陵に行きつきます。まるで狙ってここに鉄道を敷設したのか?(県道44号線は大仏線の廃線転用道路になります。)と思ってしまうくらい対になる様に御陵があります。

天武朝を継ぐ皇太子である首親王に皇位を継ぐ為に、皇室である祖母と叔母がピンチヒッターとして皇位を継いでいます。文武天皇が若くして崩御してしまった事もあり、どれだけ天武朝として首親王を大切にしていたかがこの辺りからも見えてきます。

 元正天皇も母:元明天皇と同様に荼毘に付されています。続日本紀の記載によると、極力葬送を簡略化した元明天皇に対して、元正天皇は聖武天皇の意向もあったのか此処とは違う場所で火葬され一年後にこの場所に改葬されたとしています。

 宮内庁によると陵形は「山形」となっており、これは元明天皇と同じであり、明確な墳丘ではなく陵域のどこかに埋葬されたと治定しているんだと思われます。

佐保山周辺探訪

佐保山周辺陵墓

各被葬者の相関図

平城宮の東側、東大寺の北西に広がる佐保山周辺には聖武天皇と天皇と非常に係わりが深い方達の陵墓が点在しています。

天智天皇 ━ 阿部内親王 
       (元明天皇)  ┏ 元正天皇  
         ┣━━━┫ 
天智天皇 ━ 草壁皇子  ┗ 文武天皇
                ┣━━━ 聖武天皇  ┏ 安倍内親王
       藤原不比等 ┳ 藤原宮子     ┣━━┫ (考謙・称徳天皇)
             ┗━━━━━━ 光明皇后  ┗ 基皇子

四十三代 元明天皇
四十四代 元正天皇
四十五代 聖武天皇
     聖武天皇:光明皇后
     聖武天皇皇太子:基皇子
     聖武天皇生母:藤原宮子 

天武天皇から称徳天皇までの天皇は天武系天皇と呼ばれているのですが、跡継ぎとなる皇子が早逝するなどの要因から女性天皇が多く即位しています。称徳天皇は未婚のまま天皇に即位した事もあり跡継ぎがおらず天武系は断絶し、天智系である四十九代光仁天皇が即位しています。

狭穂姫伝説

 佐保山周辺には垂仁天皇の皇后であった「狭穂姫」に纏わる伝承地が伝わっています。古事記や日本書紀に「垂仁天皇の皇后であった狭穂姫は兄の狭穂彦王の謀叛を停める事が出来ず、稲城に籠った兄に殉じてしまった。」というめっちゃざっくり説明するとこんな感じの話が載っています。で、稲城があったであろう場所というのが狭穂彦王の本拠地だったと伝わる佐保山周辺になる訳です。

  • 狭岡神社:境内に「狭穂姫伝説」の碑があります。
  • 黒髪山稲荷神社:古事記で記されている「剃った髪を埋めた」場所という伝承があります。
  • 常陸神社:境内社に「佐保姫大神」の祠が鎮座しています。奈良で春を司る神とされていますが、狭穂姫との関係性も指摘されているんだとか。

御陵を地図で確認

陵墓名奈保山西陵
所在地奈良県奈良市奈良阪町地内(Googlemap
最寄駅鉄 道:
バ ス:

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