御陵

元明天皇:奈保山東陵

御陵情報

御陵名奈保山東陵
被葬者第四十三代元明天皇
古墳名
所在地奈良県奈良市奈良阪町地内(Googlemap
陵 形山形
規 模
築造期
御陵印畝傍陵墓監区事務所

元明天皇とは

天智天皇の第四皇女であり、天武天皇の第一皇子である草壁皇子の妃となり、後の文武天皇、元正天皇を産んでいます。文武天皇が崩御した時、その皇子である後の聖武天皇がまだ幼少出会った事もあり、いわば中継ぎ的な感じで皇位についています。在位期間は慶雲四年(707年)から和銅八年(715年)。「なんと立派な平城京」のごろ合わせで覚えた方も多いかと思いますが、和銅三年(710年)の平城京遷都を行った天皇になります。元明天皇の御代に起きた事を簡単に纏めると下記の通り。

和銅元年(708年)平城京造営の詔
和同開珎発行
和銅三年(710年)平城京遷都
和銅五年(712年)太安万侶による「古事記」完成
和銅六年(713年)全国に風土記の編纂の詔

当サイトでも随時紹介している「古事記」が完成したり、日本で最初の流通通貨とされる「和同開珎」が発行されたりと平城京遷都以外にも日本史の歴史の教科書に必ず載っている事業がいくつも行われています。

参拝記

 元明天皇の陵墓とされる奈保山東陵は奈良県道44号線「奈良加茂線」から少し東に入った住宅地の北側に位置しています。この辺りは奈良県と京都府との県(府)境に近い場所になって、県道を少し走ると京都府木津川市というそんな場所になります。

 元明天皇は崩御の前に「葬送簡略化の遺詔」と呼ばれる詔を発しています。この詔の内容は「大和国添上郡蔵宝山(佐保山)の雍良岑にて火葬し、改葬はするべからず。墳丘を作ることなく竈を作り、棘を刈り開き、そこを墓所とせよ。またその地は常葉の樹木を植え、刻字之碑を建てよ。」となっており、養老五年(721年)12月7日に崩御後、葬儀は行われず12月13日に火葬後、椎山陵に葬られた。

 鎌倉時代、室町時代、戦国時代と歴史が進むにつれ御陵の所在が不明となっていたのですが、御土の崩壊により埋まっていた「刻字之碑」が掘り出され、奈良豆比古神社にて「函石」として祀られてた石碑こそが「刻字之碑」であるとしこの場所が元明天皇の御陵であると治定されたそうです。

 ただ、明確にここだと指定しているわけではなく、治定された場所はかなり広い様で、この中のどこかに元明天皇陵が存在しているといった感じの様です。自然の山の中に埋葬するようにという詔が発せられていて、詔に反して墳丘を作る訳にはいかないのでまさに自然に山に溶け込んでいるといった感じなんでしょう。

佐保山周辺探訪

佐保山周辺陵墓

各被葬者の相関図

平城宮の東側、東大寺の北西に広がる佐保山周辺には聖武天皇と天皇と非常に係わりが深い方達の陵墓が点在しています。

天智天皇 ━ 阿部内親王 
       (元明天皇)  ┏ 元正天皇  
         ┣━━━┫ 
天智天皇 ━ 草壁皇子  ┗ 文武天皇
                ┣━━━ 聖武天皇  ┏ 安倍内親王
       藤原不比等 ┳ 藤原宮子     ┣━━┫ (考謙・称徳天皇)
             ┗━━━━━━ 光明皇后  ┗ 基皇子

四十三代 元明天皇
四十四代 元正天皇
四十五代 聖武天皇
     聖武天皇:光明皇后
     聖武天皇皇太子:基皇子
     聖武天皇生母:藤原宮子 

天武天皇から称徳天皇までの天皇は天武系天皇と呼ばれているのですが、跡継ぎとなる皇子が早逝するなどの要因から女性天皇が多く即位しています。称徳天皇は未婚のまま天皇に即位した事もあり跡継ぎがおらず天武系は断絶し、天智系である四十九代光仁天皇が即位しています。

狭穂姫伝説

 佐保山周辺には垂仁天皇の皇后であった「狭穂姫」に纏わる伝承地が伝わっています。古事記や日本書紀に「垂仁天皇の皇后であった狭穂姫は兄の狭穂彦王の謀叛を停める事が出来ず、稲城に籠った兄に殉じてしまった。」というめっちゃざっくり説明するとこんな感じの話が載っています。で、稲城があったであろう場所というのが狭穂彦王の本拠地だったと伝わる佐保山周辺になる訳です。

  • 狭岡神社:境内に「狭穂姫伝説」の碑があります。
  • 黒髪山稲荷神社:古事記で記されている「剃った髪を埋めた」場所という伝承があります。
  • 常陸神社:境内社に「佐保姫大神」の祠が鎮座しています。奈良で春を司る神とされていますが、狭穂姫との関係性も指摘されているんだとか。

御陵を地図で確認

陵墓名奈保山東陵
所在地奈良県奈良市奈良阪町地内(Googlemap
最寄駅鉄 道:
バ ス:

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