皇統譜

安閑天皇 二十七代天皇

安閑天皇とは?

 第二十六代継体天皇の第一皇子で「日本書紀」によると即位前は「勾大兄皇子まがりのおおえのみこ」と呼ばれていたようです。母は尾張連草香の娘「尾張目子媛」であり、継体天皇が都に入る以前に居していたとされる近江国または越前国にて出生したと考えられています。二十五代天皇武烈天皇が嫡子を残さずに崩御してしまった為、皇位継承権を持つ皇子が都にいなくなり、系譜を調べていきついたのが、応仁天皇の五代孫である「継体天皇」でした。継体天皇は皇位継承する為、自らの拠点だった越前国から都に移りますが、この時、皇子である「勾大兄皇子」も同行して都にむかっています。そして、 勾大兄皇子が六十七歳の時、継体天皇が崩御されたため、皇位を継承し、二十七代安閑天皇となります。しかし、高齢出会った事もあり、皇位に着いて僅か二年後、七十歳で崩御なされています。

年表

  • 雄略天皇十年
    • 生誕
  • 継体天皇七年
    • 皇太子となる。
  • 継体天皇二十五年
    • 二月七日 二十七代天皇に即位
      同  日 継体天皇崩御
  • 安閑天皇元年
    • 正月 都を倭国勾金橋に遷す
    • 三月 春日山田皇女、皇后に立后
    • 閏十二月 三島に行幸なされる。
  • 安閑天皇二年
    • 十二月十七日 崩御

 安閑天皇の御代には、関東以西において三十ヶ所以上の屯倉が置かれています。これは歴代天皇が設置してきた屯倉の数を比べると突出してその数が多くなっています。屯倉は天皇家の直轄地とも言いかえられる場所を指しているそうで、数が増えればそれだけ天皇家・・・またはヤマト朝廷の勢力基盤が強固になっていったともいえそうです。

安閑天皇を巡る系譜

 尾張目子媛  ┏ 安閑天皇
   ┣━━━━┻ 宣化天皇㉘ ━ 石姫皇女
 継体天皇㉖              ┣━━━━ 敏達天皇㉚
   ┣━━━━━━━━━━━━━━欽明天皇㉙      ┣━━━━ 菟道貝蛸皇女
┳手白香皇女              ┣━━━┳ 推古天皇㉝
┗武烈天皇㉕      蘇我稲目 ┳ 堅塩媛  ┣ 用明天皇㉛
                 ┗ 蘇我馬子 ┗ 崇峻天皇㉜

 二十五代武烈天皇に繋がる系譜は応神天皇の嫡子である仁徳天皇から繋がる系譜になります。しかし、武烈天皇には嫡子が居なかった為、ここでいわば「仁徳王朝」が断絶してしまいます。そこで、仁徳天皇の父応神天皇から繋がるとして当時越前国を勢力地としていた後の継体天皇を探し出し、皇位継承を行います。継体天皇は応神天皇の末裔とはいえ、五代孫にあたる人物なんだそうで、血縁は非常に薄くなっていて、ここで大きく天皇家の流れが変わった事からいうなれば「継体王朝」の始まりともいえると思います。
 継体天皇は二十四代仁賢天皇の皇女「手白香皇女」を皇后とすることでいわば仁徳王朝に婿入りする形となり、自身の血縁の薄さを補おうと考えたのだと思います。後の安閑天皇、宣化天皇が居るにもかかわらず、手白香皇女を皇后としたということは、手白香皇女との間に生まれた後の欽明天皇が正式な後継者とされたということでしょう。
 そうでありながら安閑天皇、宣化天皇が天皇に即位したのは、欽明天皇がまだ幼少出会った為、いわば繋ぎとして即位したのだろうと思われます。また、欽明天皇は宣化天皇の皇女「石姫皇女」を皇后としている所を見ると、さらなる両血流の融合が図られたと考えらえ、ここから現在の皇室に繋がる天皇家が始まったと言えます。

蔵王権現との習合

 安閑天皇が崩御された僅か四年後の宣化天皇三年に大和国吉野の金峯山にひとつの伝承が生まれます。

 「和漢三才図会」という書物の中の川上蔵王権現の段の中で「俗伝曰人皇二十八代安閑天皇崩後至四年宣化天皇三年現干金峯山告人曰 吾是広国押武金日丸也 仍知権現乃安閑天皇也牟」と記載している個所があります。簡単に現代語訳すると「伝承では、第二十八(七)代安閑天皇が崩御して四年後の宣化天皇三年に金峯山に現れた人が「吾は広国押武金日丸(天皇)なり。(蔵王)権現は安閑天皇である。」と伝えた。」となるかと思います。もっとかいつまんで訳せば「金峯山に現れた人が(蔵王)権現である。」という事ですね。

蔵王権現とは?

 正式名称は「金剛蔵王権現」と言います。
 仏教発祥の地インドや中国ではその名を見ることは無く、日本で生まれた日本独自の仏になり、その姿は「釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩」の三尊の合体したものとされています。

 この蔵王権現は奈良県吉野にある修験道の総本山である「国軸山金峯山寺」の本堂(蔵王堂)の本尊として祀られており、修験道の本尊としても祀られているようです。明治時代の神仏分離令により金峰山寺は神社化するように指示を受け、一時は「金峯神社」となってしまいましたが、その後明治政府による規制も収まったとこから寺院として復興を果たしていますが、神社化への爪痕は深く残っており、往時の規模には戻ることは無かったようです。

 この神社化の動きの中、本尊である蔵王権現は安閑天皇と同一視された経緯により、金峰神社となった時の御祭神は安閑天皇としていた様です。ただ、この安閑天皇と同一視されていた事から神社化を強要されている訳ですから、まさかある日突然神仏習合が否定され、修験道の危機が訪れるとは思いもよらなかったでしょうね。

 前述したような和漢三才図会で記されている様に蔵王権現が出現して「我は安閑天皇である。」と宣言下から同一視された訳ではなく、どうやら安閑天皇の和風諡号である「広国押武金日天皇」の中に「金」の文字が含まれており、蔵王権現の正式名称である「金剛蔵王権現」にも「金」が使われている事から、蔵王権現と安閑天皇を同一視する様になっていたといわれています。

安閑天皇を祀る神社

  • 射穂神社【延喜式氏内社】
    • 愛知県豊田市保見町北山二十六番地

安閑天皇のご利益

 蔵王権現と同一視されていた事から、蔵王権現と同じように諸災祓い、怨敵退散、所願成就、家内安全のご利益があると考えられます。

安閑天皇の陵墓

  • 古市高屋丘陵(比定)大阪府羽曳野市古市5丁目6−7
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皇統譜

御名勾大兄皇子
継体天皇
尾張目子媛
誕生不明
即位継体天皇二十五年二月七日
崩御安閑天皇二年十二月十七日
享年七十歳
諡名広国押建金日命
皇后春日山田皇女
皇子
陵所古市高屋丘陵

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