日本書紀を読む

巻第六 垂仁天皇|天日槍

2025年3月23日

日本書紀とは?

 養老四年(720年)に完成したとする日本最古の正史である「日本書紀」(やまとぶみ・にほんしょき)になります。ほぼ同時期に造られたという「古事記」と何かと対比されがちな傾向にあります。先にも述べましたが、「日本書紀」は正史として国内外に発信すべく造られた書であり、「古事記」は物語調でもあり国内に向けて天皇の正統性を発信する書であり、編纂目的は大きく異なっています。こうして異なった目的で編纂されたこともあり、古事記は物語調という事もあり非常に読みやすい書であるのに対し、日本書紀は年代を追って書く編年体を取っていて正直呼んでも面白くは・・・・。
 同時期に編纂されたこともあり、物語の冒頭から巻末までの範囲はほぼ同じなわけで、古事記と日本書紀を読み比べていくと飛鳥時代から奈良時代にかけての日本のあり様が見えてくるのではないでしょうか。

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天日槍

本文

三年春三月 新羅王子天日槍來歸焉 將來物 羽太玉一箇 足高玉一箇 鵜鹿鹿赤石玉一箇 出石小刀一口 出石桙一枝 日鏡一面 熊神籬一具 并七物 則藏于但馬國 常爲神物也  
一云 初天日槍 乘艇泊于播磨國 在於完粟邑 時天皇遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨 而問天日槍曰 汝也誰人 且何國人也 天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇 則以己國授弟知古而化歸之 仍貢献物葉細珠 足高珠 鵜鹿鹿赤石珠 出石刀子 出石槍 日鏡 熊神籬 膽狹淺大刀 并八物 仍詔天日槍曰。播磨國完粟邑 淡路島出淺邑 是二邑 汝任意居之 時天日槍啓之曰 臣將住處 若垂天恩 聽臣情願地者 臣親歴視諸國 則合于臣心欲被給 乃聽之 於是 天日槍自菟道河泝之 北入近江國吾名邑而暫住 復更自近江 經若狹國西到但馬國則定住處也 是以近江國鏡谷陶人 則天日槍之從人也 故天日槍娶但馬出嶋人 太耳女 麻多烏 生但馬諸助也 諸助生但馬日楢杵 日楢杵生清彦 清彦生田道間守也

現代語訳

垂仁天皇三年春三月、新羅の王の子である天日槍あめのひほこが訪れた。持参した物は羽太玉はふとのたまひとつ、足高玉あしたかのたまひとつ、鵜鹿々赤石玉うかかのあかしのたまひとつ、出石小刀いづしのこかたなひとつ、出石桙いづしのほこ一枝、日鏡ひかがみ一面、熊神籬くまのひもろぎ一具の合計七点であった。これらを但馬国に納め、神宝とした。

一説には、はじめ天日槍は船に乗り播磨国にたどり着き、宍粟邑しさわのむらに留まっていた。天皇が三輪君みわのきみの祖である大友主おおともぬし倭直やまとのあたいの祖である長尾市ながおちを遣わし、天日槍に「そなたは何者だ。何処の国の者か。」と問うた。天日槍は、「私は新羅国の王の子です。日本国に聖皇がみえると聞き、国を弟の知古に託しやってきました。」そして、葉細珠はほそのたま足高珠あしたかのたま鵜鹿々赤石珠うかかのあかしたま出石刀子いづしのかたな出石槍いづしのやり日鏡ひのかがみ熊神籬くまのひもろぎ膽狹淺大刀いささのたちの八点を献上した。
天皇は天日槍に対し、「播磨国の宍粟邑しさわのむらか淡路島の出浅邑いでさのむらの二ヶ所の邑の好きな方に滞在を許す。」と言われた。しかし、天日槍は「私が住む場所は、私の望みを君が認めてくれるのならば、自ら諸国を巡り、私の心かなう場所に住ませて頂きたいと思っております。」と上申し、この申し出に許しがでた。
天日槍は菟道河うじがわを遡り、近江国の吾名邑あなむらにしばらく住んだ。そして近江国から若狭国を経て、但馬国に到り居所を定めた。近江国の鏡邑の谷の陶人は天日槍の従者である。天日槍は但馬国の出嶋の人、太耳の娘である麻多烏またおを娶り、但馬諸助たじまもろすけが生まれた。諸助から但馬日楢杵たじまのひならぎが生まれ、日楢杵から淸彦きよひこが生まれ、淸彦から田道間守たじまもりが生まれた。

登場した人々

  • 天日槍
    • 記紀に登場。古事記では「天之日矛」と記される
    • 古事記では神功皇后の祖であるとしています。
    • 但馬国一宮「出石神社」の御祭神として祀られている。
  • 大友主
    • 日本書紀の仲哀天皇九年二月六日の記述に、仲哀天皇が崩御された際、神功皇后と武内宿禰は「今天皇の崩御を知らせると国内が乱れる。」として喪を隠し、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連の四太夫に宮中を守らせたと記されている。
  • 長尾市
    • 日本書紀に登場。倭国造の一人であり倭直(倭氏)の祖。
    • 倭大国魂神を御祭神とする「大和神社」の創建に深く関わっている。
      日本書紀の崇神天皇七年八月七日の記述に「倭迹速神浅茅原目妙姫、大水口宿禰、伊勢麻績君の三名は同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になる。」と夢告があったと天皇に奏上し、その通りに奉斎ささえると国内が鎮まったと記されている。
    • 日本書紀の垂仁天皇七年七月七日の記述に、当麻蹶速の対戦相手に出雲の野見宿禰を連れてくるよう命じられたと記されている。
  • 但馬諸助
  • 但馬日楢杵
  • 清彦
    • 日本書紀:垂仁天皇八十八年の伝承に登場。
      • 垂仁天皇が「天日槍が持参し但馬国の神宝となっていた宝物を見たい。」とし勅使を天日槍の曾孫である清彦の元に派遣し宝物を献上させた。この時に「出石小刀」だけは隠していたが、天皇に見られてしまい結局献上する事に。後日、その小刀が治めていた御蔵から消えてしまい、天皇はその小刀に霊威を感じそれ以上探す事はなかった。その小刀は淡路島に現れ、この小刀を神として祠を立て祀られています。
        現在でもこの出石小刀を祀ったという神社が淡路島の洲本市に鎮座しています。
  • 田道間守
    • 記紀に登場。古事記では「多遅摩毛理」と記される。
    • 天日槍の後裔で三宅氏の祖。菓子の神、柑橘の神として知られている。
    • 記紀共に垂仁天皇により「ときじくのかくのみ」を探す為に常世の国に派遣され、縵八縵・矛八矛を持ち帰るが、既に垂仁天皇が崩御していた為、嘆き悲しんで亡くなったとしている。

まとめ

日本書紀・古事記に登場し、特に古事記においては日本の女帝ともいえる「神功皇后」に通じる系譜の祖であるするなど重要性を高めている「天之日矛/天日槍」の伝承になります。前回でも述べていますが、日本と朝鮮半島との交易・人の往来は想像以上に活発で、天日槍が実在したかどうかは不明ですが、当時の朝鮮半島にあった新羅・任那の所縁の人物の伝承として記紀に取り上げられる程に朝鮮半島から渡ってきた渡来人の影響力は非常に強かったのではないかと思います。

ぜひ、こちらもご覧になって、日本書紀との記述の違いを確認してみてください。

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 日本書紀を読んでいくにあったって、原文は漢文で書かれているので非常に読み込むのが困難なので、現代語訳されている本が一冊あると助かるかと思います。当サイトでは、戦前から日本書記の翻訳本として有名な岩波文庫の日本書記を非常に参考にさせて頂いています。

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